自分の足は誰が洗うのか?~床屋のパラドックスとイエス様~

おはようございます、satoです。

今日は数学における「パラドックス」の話をしていきたいと思います。
数学、より一般に論理学における「パラドックス」とは、前提となる条件も結論に至る推論も妥当なのに、現実と矛盾するような結論が得られるような問題のことを言います。
数学的に論理体系を研究する「数理論理学」ではこのようなパラドックスが出てきたり、時には大きな結果を生み出すことがあります。

自己言及のパラドックス

たとえば、有名なものとして自己言及のパラドックスがあります。これは、次のような問題です。

ある一人の人が「私は嘘つきだ」と言いました。さて、この発言は本当でしょうか、それとも嘘でしょうか?

ただし、「嘘つき」は全て嘘を話し、「正直者」は全て本当のことを話しているとします。
解説する前に、皆さんも少し考えてみましょう(`・ω・´)

※画像に意味はありません^^;

さて、果たしてこの人の発言は本当なのか、嘘なのか?について解説します。

もし、この人の発言が本当なら、この人は「嘘つき」ということになります。そうするとこの人の発言は全て嘘なので、「自分は嘘つき」も嘘ということになります。
…って、あれ?発言が本当だとしたのに、いつの間にか「発言が嘘」になっています。
逆に、この人の発言が嘘なら、この人は「正直者」ということになります。そうすると、この人の発言は全て本当のことなので、「自分は嘘つき」という発言は本当になります。
…って、ちょっと待って。この人の発言が嘘だって言っていたのに、いつの間にか「発言が本当」ということになっています。
そして、本当→嘘→本当→嘘→…といつの間にか無限ループに陥っています(´・ω:;.:…

このように、自分について言及したこの発言が真か偽かというのを決めようとしたら、どちらにしても矛盾が生じてしまうのです。
これを「自己言及のパラドックス」といいます。

自己言及というのはそれほど難しい話なのですが、この話が数理論理学における有名な定理「ゲーデルの不完全性定理」の証明に使われています。
これは「ある条件を満たす論理体系に対して、その論理体系で証明することも反証することも出来ないような問題が存在する」という話で、その証明に先程のパラドックスと同じ自己言及が使われているのです。

こんな感じで、論理学を突き詰めると色々なパラドックスがあるわけです。

床屋のパラドックス

それでは、今回のタイトルに出てきた「床屋のパラドックス」について解説していきます。
…こんな感じの問題です。

A村には床屋が一つしかありません。この床屋は男の主人一人で経営をしていて、法律によって「自分で髭を剃らない人全員の髭を剃る」ことが定められています。
逆に、自分で髭を剃る人の髭は剃ってはいけないという法律があります。
さて、主人は髭を剃るのでしょうか?剃らないでしょうか?

もし主人が髭を剃るとしたら、それは「自分で髭を剃る人の髭は剃ってはいけない」という法律に反してしまいます。
一方、主人が髭を剃らないとしたら、それは「自分で髭を剃らない人全員の髭を剃る」というルールに反します。

というわけで、これは先程の嘘つきのパラドックスと同じ「自己言及」の問題になっています。
(余談ですが、この法律改めて考えてみると妙ですよね…。現実にはないでしょうね…(笑))

ところで、聖書には…

聖書には次のような話があります。

夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが、イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。-ヨハネによる福音書13章2-8節

これは有名な話で、イエス様が弟子たちのところまでくだって仕える姿勢を見せ、あなた方もお互いにそのようにしなさい、と話をされたのです。

こうして彼らの足を洗ってから、上着をつけ、ふたたび席にもどって、彼らに言われた、「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。-ヨハネによる福音書13章12-14節

この足を洗う、というのは本来しもべが主人にすることなのですが、それを「神様の息子」という立場であるイエス様が弟子にすることを通して、お互いに仕え合うことを示されたのでした。

ところで、ここで一つの疑問が生じます。

イエス様が弟子たちの足を洗うとして、それでは「イエス様の足」は誰が洗うのでしょうか?

よくよく考えると、イエス様の足が洗われたという話は書かれていません。
もし、弟子たちに「互いに足を洗い合うべきだ」というなら、まず「自分自身の足」をどうにかしないといけないのでは?

というように、パラドックス風にも出来ますが、ちょっと無理矢理感がありますね(笑)

でも、よくよく考えると本当に「イエス様の足」は誰が洗うのでしょうか?
全ての人に御言葉を伝え、反対されたり、迫害を受けたとしても諦めることなく、どんな汚い人でも同じ友として接し、全ての人を救おうとしたイエス様。その人の足は誰よりも汚れているはずです。

これは私の感覚ですが、その足を洗うのは、その人の心情を分かる人がして差し上げるべきだと考えます。でも、その人の足を洗う、というのはどういうことでしょうか?もし誰かが罪を犯したならば、イエス様はその人のところに行ってまた足が汚れてしまうのです。
そうであるならば、足を洗う、というのは「自分自身を清くし、イエス様が行かなくても済むようにすること」なのかななんて思うのです。

そして、それは結局「イエス様と一緒に生きること」ということになります。
そうすれば、たとえイエス様の足が汚れていたとしてもすぐに気づいて、足を洗って差し上げることが出来るのですから。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。