摂理人の数学話:目には見えない本質~スキームと本地垂迹、そしてヘブル8.5~

宗教にも数学にも出てくる、本質的な考え。それって、とても神秘的な気がします。

こんばんは、satoです。

今日は、数学のとある講演を聞いた時の話です。

 

現代数学ではこんな話があります。(以下、数学を勉強している人向け)

代数多様体という物があります。これは簡単に言うと代数方程式(一次、二次…などの多項式からなる方程式)によって定まる図形のことです。

よくある例は、高校生で習った放物線。

放物線は二次関数y=x^2のグラフです。ところで、この関数もよくよく見るとy-x^2=0という方程式になっていますよね。そう、これも代数多様体の一つです。

で、この代数多様体というのは、本質的な性質はすべて『代数多様体上の関数からなる環』に反映されているということが知られています。ここで、環とは足し算と掛け算が定義されている集合のことです。ちゃんとした定義は省略。

代数多様体だけでなく、C^*環というものとこの上の関数環はちゃんと対応しているのです。

この考えを突き詰めたのが、Grothendieckによって発見されたスキームという概念です。

任意の可換環Rに対してSpec Rを素イデアル全体として定義します。これが、ちょうど代数多様体のような図形になっていると考える、というのがスキームの考えです。そして、多くの問題をスキームの性質として表現することができて、スキームの話にすることで問題が解決することが多くありました。

事実、スキームの開発によって、それまで難問だったいくつもの数論の予想を解決し、Grothendieckはその功績からフィールズ賞を受賞しました。

(以上、専門的な話終わり。ちなみに、これはこのブログでLaTeX形式で入力するテストも兼ねています。)

本地垂迹という話

さて、今の話をまとめると、

ある種の図形はその上の関数環というものが本質を握っている

ということです。このことを本地垂迹という言葉で表現したのを、私は講演で聞きました。

本地垂迹というのは、簡単に言うと日本における八百万の神々は実は仏の化身であったという神道と仏教を習合しようとした説です。つまり、目に見える神々は、実は目に見えない仏の一部だった。という話です。

目に見える図形が、実は目に見えない「関数環」によって定められている、という今のスキームの考えにあっています。

聖書で言うと…

私は摂理で聖書を学んでいます。この話を聞いて、私は聖書のある聖句が浮かびました。

ヘブル人への手紙8章5節

彼らは、天にある聖所のひな型と影とに仕えている者にすぎない。それについては、モーセが幕屋を建てようとしたとき、御告げを受け、「山で示された型どおりに、注意してそのいっさいを作りなさい」と言われたのである。

ここで言う彼ら、とは祭司のことです。祭司とは人々が神様に捧げ物を捧げる時に、捧げ物を捧げる役割を担う人です。

旧約時代、彼らは幕屋に住んで、祭壇に捧げ物を捧げていました。ところが、この聖句では目に見える祭壇は、天にある聖所のひな型と影にすぎないと書いているのです。

つまり、祭壇が本質ではなく、目に見えない天が本質である。ということです。

これもまた、スキーム理論や本地垂迹の話と共通しています。

全てに共通する真理

それは『目に見えるものが本質でなく、見えないものが本質である』ということです。

摂理では、この話から、目に見える肉と、目に見えない霊の話をするのです。

目に見えない霊、それを理解するために、また作るために肉が存在する。肉と霊はそれだけ関係が深いものです。

…この話は次に回しましょう。

今回話したかったことは

真理はどの分野にでも現れる

ということです。これをわかると、一層学問も楽しくなります。

これからも、こういう紹介をしていきたいです。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。