摂理と血縁社会~摂理で指導者をするとはどういうことか~

こんばんは、satoです。
今日は今話題となっている「血縁社会」と摂理について書きたいと思います。
話したいことは「摂理で指導者をやるということはどういうことか」ってことです。

血縁社会とは?

日本社会には多くの企業がありますが、「次期社長は現社長の子供か親族」というところが多いです。創業者の子孫が社長職、自分はどんなに頑張っても社長になれない…なんてこと(´・ω・`)
重役は皆親族、コネがないと良いポストにつけないというところもあります。いわゆる「ファミリービジネス」と呼ばれているものです。
それには色々な理由があるのかもしれません。
子供のころから社長にするためにたくさん教育をし、見て学ぶようにさせ、立派な後継者に…という狙いがあるところもあります。そういう場合は「優秀な後継者」として会社を安泰させることができるかもしれません。
しかし、一方で自分の子供可愛さで甘やかせ、子供が苦労しないために社長のポストに就かせるなんてこともあります。こういう場合大抵どんなに社長が優秀だったとしてもその子供はうまくできないことが多く、会社を破たんさせることになります。

愚かな子はその父の憂いである、
またこれを産んだ母の痛みである。

口語訳聖書 箴言17章25節

このように会社の運営において血縁が強く関わっているのが血縁社会です。

韓国の血縁社会

血縁社会は日本で結構強い傾向にあるのですが、日本以上にこれが強いのが韓国です。韓国の大企業の多くが血縁で重役を選んでいます。
たとえば、韓進グループ(大韓航空や最近破たんした韓進海運などを有する財閥)。
大韓航空の副社長でナッツリターン事件を起こした「ナッツ姫」は会長の長女でした。
また、最近紛争事件や裏金疑惑で揺れているロッテグループも子供に経営を任せるようになりました。
それで日本側の会長を務めた長男と韓国側の代表である次男が紛争を起こすなど…色々な問題が起きていますが。
問題が起きたところが有名になってしまうのは、そういう問題が起きて初めて日本に伝わるからなのですが、それ以外にも多くの企業が血縁関係のある人で経営が成されています。

上の事件にも表れているように、才能や特性より血縁重視で経営を選んでしまうと問題が起こります。
経営ってある種の才能が必要ですからね…私には到底務まらない気がします(´・ω・`)
それで、血縁社会に疑問を持つ人も多くいます。

摂理の指導者に対する誤解

ところで、摂理の聖殿月明洞は鄭明析先生の弟さんであるポンソク牧師を修練院長として開発をしています。
それを見ながら鄭明析先生の弟だからそのように使われるのではないか?って考えを持つ人がいるようです。
つまり、「先生の血縁だから重宝されているのではないか?」という話ですね。

これに関連して、摂理には女性の指導者がとても多いのですが、それを「鄭明析先生が女性好きだから」と言っている人がいます。
この認識は刺激的な事件を求めた一部のメディアがそのような偏向報道をしたことが大きいです。
しかし、実際のところ摂理は「女性好き」とか「血縁関係」とかいう理由で指導者になれるところではありません。

摂理の指導者とは

摂理において、指導者を行なうことはそんなに簡単なことではありません。それは社長を務めることが簡単でないことと同じです。
社長は単に仕事ができるとか知識があるだけで務まるのでなく、「会社の経営」、「雇用している人の状態」、「自分の企業と他社との関係」、「世の中の動向」などそういうものを随時把握しそれに合わせながら「企業の理念を果たすために何をすべきか」考え、実行していく…そういうことをしなければならないのです。「万遍なく」できるようにならないと務まりません。
これと同じように、摂理において指導者をやるということは「従う人一人一人を神様に近づけ、神様と繋がる」ようにするという目的を果たさなければなりません。
だから、まずは「自分が神様と近くする、神様の精神に作る」ことをしなければなりません。その上に「従う人の状態を把握し、一人一人の声に耳を傾ける」、「時には動かない人を動かすために色々なことをする」、「御言葉を上手に教える」など多くのことをしなければならないのです。

そういうわけで、摂理で指導者を行なうということは「それだけ神様の価値を悟り、行なうことの価値を悟って」初めて任せられます。
つまり、神様の価値、摂理の御言葉の価値を知り、神様を愛する人が摂理における重役を任されているのです。
実際、ポンソク牧師に接してみると、どれほど神様を愛し、摂理にいることの価値を悟っているかを感じます。その言動一つ一つが深く、一人一人を愛で見ているということが言葉でも態度でもにじみ出ています。
また、修練院長として岩の造形の作業の最前線で指示を出されていました。岩を立てるのは本当に危険なことが多いのですが、それを間近で見て細かく指示を出されているのを、私は現場で直接見ました。

摂理で指導者と呼ばれている人たちも、神様の愛を実際に見せようとあれこれもがいているのをそばで見てきました。
心が苦しんでいる人のために祈り、時には悪口を言われたり誤解されることも厭わず間違った道に行こうとしているところを諫め、神様の御言葉を、その心情を伝えるために毎日のように準備し…と。
それでいて、もっとこうしないと…と叱られることもあります。むしろ叱られる方が多かったりします。
以上のことから「女性好きだから、弟だから…」といってやらせる/できることではありません。

それでも指導者を務めている方は感謝と愛を持って、真心で使命を行なっています。また、常に自分の足りなさを認め、日々自分を作られています。
そうできるのは、まさに「神様を愛しているから」なのです。

摂理は「公義」で運営される

摂理で「血縁社会」というある意味「甘い」ものは成り立ちません。摂理は神様を何よりも愛し、自分から進んで神様の願うことを行なう人が使われるところです。
それは血縁や性別、学歴を問わず「誰にでも平等にチャンスがある」ということ。だから、摂理はある意味で血縁社会と真逆の「公義」、行なった通りに成されるところなのです。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。