肉の苦痛より心の苦痛。

おはようございます、satoです。

摂理のこの御言葉から思ったことを徒然と書いていきます。

人は心が苦しくて自殺するのであって、 体がつらくて自殺するのではない。

肉で感じられる苦痛には限界があるが、 心で感じられる苦痛には限界がない。 時には、死の恐怖を超えるほどの恐ろしさに襲われることもある。

私は、肉体の苦痛を比較的感じにくい人です。
かつて鼻骨骨折したときも痛みは感じなかったし、(アドレナリンが出ていたから?)
骨折した骨を戻すときも痛みを感じる前に終わってしまいました。
(お医者さんを通して主が治してくださったということもありますが、それにしても…)
そもそも体格や普段の習慣の割に体が意外と頑丈な方で、滅多なことで怪我をしません。たとえば
「雪山を滑っているときによそ見して道路に落ちて頭をぶつけて気絶した」
「ガラスに頭からぶつかって、ガラス割れた」
「高い山からソリで滑っているうちに曲がろうとしたらクラッシュして激しく転倒した」
「海で潜っているときに波にさらわれて岩山に頭をぶつけた」
などなど、今まで割と大きなアクシデントがあったのですが、いずれも怪我をしていない、または軽い(打撲とかちょっと切ったとか)くらいでした。最初に書いた「鼻骨骨折」が一番大きな怪我です。

もっというと「疲れた」としても「スイッチをオフにする」ことである程度動くことができます。
(ただし、精神状態は割と良くない。無心、というより乖離状態に近いかも)

その代わり、と言ってはなんですが、心で感じる苦痛にはかなーり敏感です。我慢することが苦手なのはこのため。
だから、私にとっては「疲れる」ことより「怒られること、失敗すること」の方がかなり怖いのです。そのため、バイトでも仕事でも準備作業はかなり早めに行います。
お陰で、バイトとかで長時間働くときも先に準備…を繰り返しているうちにいつのまにか水分不足になってフラフラしてる、なんてこともありました。

それを見て神様が人を通して飲み物をくださることがありがたいです(>_<)

また、自分が気づかないうちに精神が追い詰められているということもあります。
おそらくある程度の限界を越えるとスイッチオフになって無心に自動化しているのだと思われます。しかし、そうなるともっと大変なことになります。

私みたいに肉体の苦痛が感じにくい人は無茶をしても気づかず、いつのまにか限界寸前なんてことも有り得ます。
そういうとき、もちろん神様が気づかせてくださり助けてくださることも多いのですが、自分でも

「あ、この状態はまずいかも?」

と気付けるかが鍵です。もし、見た感じ「ダメそう」な人がいたらぜひお声かけしてもらえたらと思います。

話を戻して、心の苦痛はやはり肉体の苦痛より大きい、というのは本当にその通りです。
私にとって苦痛だったのは中学時代でしたが、そのときに一番苦痛だったことが分かってもらえなかったことでした。

自分の気持ち、主張、嫌な思いを分かってもらえずずっと耐えてきたときが本当に辛かったです。

だから、今多少肉体が辛くても分かってもらえる人がいて、私をすべてご存じの神様を知っている今が一番幸せなのです…。本当に感謝します。
今も肉体の苦痛はありますが、それより「わかってもらえない」心の苦痛がなくなったことが本当に嬉しいです。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。