摂理にはどんな人が来ても良いのか?~十字架の価値~

おはようございます、satoです。

今日ふと思ったことですが、摂理には色々な経緯を持つ人がいるなと感じました。
私はオタクで周りとの交流を積極的にしない、けど興味を持ったものには突っ込むような生き方をしていました。あまり現実的でない思考を持ち、数学と空想世界に溺れるような生活をしていました。
こんな私も相当にレアですが(笑)摂理にはもっと色々な経緯を持った人がいます。
たとえば、摂理宗教の女性ブログにて記事を書いているちーちゃんさん

ピアノ講師→4トントラック運転手→エステティシャン→ジュエリー販売→リハビリ・看護助手…という類まれな経歴を経て、28歳で摂理道へ!
現在は埼玉でヨガインストラクターの卵として奮闘中☆

ちーちゃんさんの紹介文より引用

という類まれな経緯を持っています。このブログには自分の経緯が書かれていて、ピアノ講師の時点で相当壮絶な経験をしているということが分かります…Σ(・∀・;)
また、摂理の名古屋嬢ブログにて記事を書いているアスキーアート使いのあずきさん夜のお仕事や投資、ビジネスなど普通の人が経験しないような壮絶な境遇から摂理に呼ばれました。

        ∧_∧
   ( ・∀・)/ヽ
    ノ つつ   ● ) 
  ⊂、 ノ    \ノ
    し'
こちらがアスキーアートです(^^)いつも楽しく見てます(^^)

今回書きたいのは摂理にはどんな人が来て良いのか?という話なのですが、結論から言いますと

どんな人でも、神様に呼ばれるならば摂理に来れる

と私は考えます。
摂理に来る前に

大きな罪を犯した人でも

社会から役に立たないとされる人でも

悪いことを行なった人だとしても

病気や障害を抱えていたとしても

また、摂理を一度離れたけど戻りたいと思っている人でも

どんな人でも、摂理に来ることはできるし、来てほしいと思っています。
救われたい、変化したい、今の境遇から抜け出したい…と切に願っているならば、どんな人でも。

聖書でも

それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

口語訳聖書 マタイによる福音書9章10-13節

というようにイエス様が罪人を許していたのですが、それはどうしてかといえば上の聖句の最後の部分、わたし(イエス様=キリスト)が来たのは罪人を招くためと書いてあるところから来ています。だから、世の中が罪人としている「取税人(今で言う借金取り)」や「熱心党(今でいうと現政府に対して反対する過激な団体)」、「娼婦(今で言うと性商売をしている人)」がイエス様のところに来ることを拒みませんでした。
たとえ、それによってユダヤ教の人々や群衆が誤解したとしても。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。

口語訳聖書 ヨハネによる福音書3章16-17節

この聖句に書かれている通り、キリストは全ての人を救うためにこの世に遣わされました。
イエス様は最終的にユダヤ教の人たちの手によって十字架に掛けられました。
それは全ての不信する人々の罪、知らずに迫害する人の罪を許し、救われるためでした。
それによってパウロのようなユダヤ教の人々からもイエス様を信じて救われる人が現れました。

なぜ、多くの罪を犯したような人を神様が救われ、摂理に呼ばれるのでしょうか?
そのひとつの答えは、先のあずきさんが書いていました。

正直、信仰を持つ前は本当に乱れていました。

でもそんな小豆ちゃんを神様は呼んでくれました。

なぜ????

小豆ちゃんを通して、小豆ちゃんと同じ境遇の人を救いたいからなんだなと。

なぜ始めたのかの巻 by小豆ちゃん

自分が救われることで、同じ心境の人を救うことができるからです。
研究者にしか研究者のことが分からないように、大学生にしか大学生のことが分からないように、自分と同じ経験、境遇にいる人のことは自分にしか分かりません。
だから、神様は「同じ境遇にいる人の中で最初に一人」救われ、その人を通して救いの歴史を広げるのです。

もう一つ私が感じたのは、多くの罪を犯した人が許され、救われること、それ自体が「神様の愛」と「十字架の価値」を証するということです。
キリストは私たちの罪を許し救うために罪の代価を受けられました。だから、多くの罪を犯した人も許され、救いの道に行くことができます。
言い換えると、多くの罪を犯し、到底救われないような人が許され、神様を信じることそれ自体が神様が働かれ、キリストがキリストであることを証することになるのです。

だから、全ての人が摂理に来て信仰を守ること、それ自体が「神様を証している」と私は思います。
神様を知らず、多くの罪を犯した私たちが許されたこと、一人一人がキリストの愛を表しているのですから。

そういうわけで、私は摂理にはどんな人でも来ていいし、来てほしいと思っています。
ただ、今の自分から変化したい、救われたい、と思う心さえあれば。

最後に一つ聖句をひいて終わります。放蕩息子のたとえ話の最後のところです。

兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」。

口語訳聖書 ルカによる福音書15章29-32節

この最後の言葉が、神様の本心だと感じます。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。