「好き」って気持ちを忘れない。

おはようございます、satoです。

今日御言葉を聞きながら、自分がずっと間違っていた認識に一つ気づけました。
結構大事なことだったのですが、今まで間違っていたために神様の心も自分の生き方も勘違いして生きていました。
だから、本当に悔い改め、気づかせてくださったことに感謝しました。

昨日書いたように私は「HSP」の傾向があり、とても人の言葉に敏感です。
より正確には、人の言葉を聞くと言葉だけでなくその背景にある「感情」までなんとなく察知してしまいます。
それで、ツイッターのある人の「批判的な」言葉を聞いてすっかり調子を落としてしまっていました^^;
ちょっとでも触れると本当に調子を崩すのですよね…。

その言葉の根本に「神様」がいるのかどうか、「愛」があるのかどうか、それとも単に「自分が嫌だから」話しているのか。
それを敏感に感じ取ってしまい、その波長に影響を受けてしまう、というのが今までの私でした。

ところで、前にも何回か書いたように私は賛美がとても好きです。
できることなら毎日歌っていたいくらい。
でも、そのことをすっかり忘れてしまっていました。おそらくショックが強かったのでしょう…^^;

しかし、ある教会の人から「satoさんの賛美、なんか良いですよね。生活でいつも賛美しているからなんか違う」という話を聞きまして、それでハッとしました。
「そうだ、私は賛美が本当に好きだったな」って。
それで、もっと賛美を歌うようになりました(笑)

私は自分のことを把握しているようでまだ把握できていないことが多いです。
御言葉も、賛美も、祈りも好きなことは確かなのですが、自分が調子を落とすとなかなかうまくできないでいました。
でも、好きって気持ちを思い出して、それを大事にすれば本当に喜んでできるな、と改めて気づきました。

今年最初に私が決心したことが「信仰生活を自ら喜んでする」ということでした。
そうすることが神様にとってとても嬉しいし、これが安心させる信仰だったからです。
でも、大事な根本を見落としていました。どうして「信仰生活が好きなのか」ということを。
それを今日御言葉を聞いて思い出させてくださいました。

私を救ってくださった主は、何のために送られたのでしょうか?

わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。

口語訳聖書 ルカによる福音書12章49節

この火というのは文字通りの火でなく御言葉の火です。(参考:エレミヤ書5章14節)

それゆえ万軍の神、主はこう言われる、「彼らがこの言葉を語ったので、見よ、わたしはあなたの口にある/わたしの言葉を火とし、この民をたきぎとする。火は彼らを焼き尽す」。

口語訳聖書 エレミヤ書5章14節

御言葉を伝えるために主が来られたのに、私は「自分の願いを成す」ことばかり考えていました。
それで、心が辛かったのです。それを悔い改めました。

自分が摂理で信仰生活をする理由。それはこの御言葉があるから。
だから、御言葉を基にした賛美を歌うし、御言葉を基にして祈るのです。
それを、思い出させてくださいました。

今日私がお祈りしたのは「御言葉に対する間違った認識を治させてください」ってことでした。
このときに突然「数式」が浮かびました。この理由は未だ定かで無いですが、その後聞いた御言葉によってこの祈りが成されました。
神様の願いに叶う祈りは、すぐにも実現される、ということを悟りました。

神様が働きかけてくださったことに本当に感謝して、「好きだ」って気持ちを忘れずに、もっと喜んで信仰生活をしていきます(*´∀`*)

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。