どうして神様の愛は刺激が少ないのか?

おはようございます、satoです。

現在漫画やアニメを見ないようにしている私ですが、その理由の一環として刺激にとても弱く、特にマンガや動画を見るととことん見てしまうという傾向が強いからです。
集中している、というわけではなく、じっとしているのはむしろ苦痛なのですが、次々と見てしまいます。昔は2クール分のアニメを一気に視聴して徹夜をしたこともありました…(´・ω:;.:…
そんな私ですが、御言葉を映像で見ているとあまり集中できません。なんか気が逸れてしまいます。
これ自体はアニメでもそうでしたが、アニメであればなんとなく次のものに手を伸ばしてしまうようなことが起きてずっと見てしまいます。
そのことを考えると、御言葉にはどうも「中毒性」が足りないような感じがしました。
そういうのがないと集中できない私は

どうして神様の御言葉というのはこんなにも刺激がないのだろうか?

と常日頃から疑問に思っていました。「仮に世の中のものは刺激が強いとしたら、神様の御言葉にもそれ以上の刺激があればいいのに…」なんて思っていましたね。

これは賛美も同様でした。
世の中の曲を聞くと興奮し、中毒になるくらい音がリピートします。
しかし、賛美でそのようなことはあまりありませんでした。
気分を高揚させるという効果はあまりないように感じられます。
一方で「落ち着く」ことや「心が綺麗になる」感覚はあり、この感覚を求める時には讃美はとても有効です。

そんな私の疑問をスッキリと解いてくださった御言葉がこちらです。

私の愛の味は自然だ。
無理やり強要することも、あなたたちの脳を刺激することもしない。

自然に、自らするようにし、 自ら私の愛を感じるようにする。
それでこそ自らする愛をすることができるからだ。

摂理の御言葉「神様の愛の味」より

神様の愛は自然です。その目的は「自ら愛する」ようにするためです。
確かに刺激によって神様に掴まれるとしても、それは自分自らが良いと思って来たわけではないから、その刺激がなくなれば離れていってしまいます。
それはまるで、過激な描写で目を引いたけど、それ以外のストーリー構成やら絵やらがダメダメなマンガみたいに。
マンガにしても、アニメにしても、ストーリーがしっかりしていて面白い作品は過度な性的・暴力的etcな描写がなくても人を惹き付けます。
具体的な例を挙げると、「久保さんは僕を許さない」という作品は刺激的な描写どころか明確な恋愛シーンすら少ないですが、一つ一つの優しい雰囲気がとても良く「日常の中にある喜び」の積み重ねが感じられる名作だなと感じています。
アニメもとても良かったです。特にEDの雰囲気が完璧で、作品の雰囲気を尊重しながら「放課後の下校の一瞬」という物語の終わりに相応しい曲で…。
個人的には絵の上手い下手はあまり気にしておらず、一番はやはりストーリー(とキャラクターの個性)がしっかりしているだと思うのです。「久保さん」は絵柄が私好みですが。

また、この御言葉でもたとえに使われていましたが、料理で一番美味しいのは「材料の味がそのまま活かされる」ものだと思います。
なので、私はポトフを作る際に、大雑把に切って炒めて煮込み、(ニンニクと油と)塩のみで味づけしています。それだけで味わい深くなリマス。
最近もこれを作っていたのですが、最近一緒に暮らしている人から「え、本当にこれだけなんですか?」と驚かれますが、実際に食べると「とても美味しい…」と評判でした。
それに比べると、外食の料理やコンビニ弁当はやや刺激が強い気がします。(と言いつつ、結構食べてますが…)

このように、御言葉もしっかり考えて何度も読み込むとその味が分かるものになっています。

YouTubeやTikTokなど、スマホを介して「手軽に刺激を得られる」ものが多い今の社会において、すぐに刺激を感じられない神様の御言葉というのは面白みがないもののように感じられます。
しかし、自分でしっかりと向き合い知る分、得られる「悟り」の喜びは本当に大きいということは保証します。

鄭明析先生の御言葉でも次のようにあります。

誰でも<神様の法>を守れば、<その条件の対価>として早速「目の前で祝福」を受けるようになります。
法を守った分、早速「祝福を受ける道」へ行くようになります。 必ず!そのようになります。

鄭明析先生の主日礼拝の御言葉「法は神様だ。愛し、守りなさい。 法があなたを保護する。」より

このように「御言葉を守れば、直ちに目の前で祝福を受ける」と書かれています。この祝福は「お金が得られる」とか「仕事がうまくいく」とかそういうものとは限らないのですが、確実に存在しています。
私個人としては、御言葉を守ろうとすると感じられる「心の喜び」が大きいです。これは霊の喜びであり、続けて御言葉を守る限り一生消えない喜びでもあるのです。

人はなぜ色々な刺激を求めるでしょうか?それは、根本的にはその刺激、喜びが消えてしまうからです。
また、人の脳は刺激にすぐに慣れてしまい、もっと強い刺激を受けないと満足できなくなるからです。
それに比べると、確かに「神様の御言葉を守る喜び」というのは守る限り一生消えないという面で「祝福」ということができます。

とはいえ、刺激が多い昨今考えを集中させるのは簡単ではありません。特にADHD傾向にある人は刺激的なものに引っ張られやすいし、元々中毒になっていたのでそれがなかなか抜けません。
そんな私でも摂理に来てから長く経ち、数学研究をしたり、自分に向き合って生活したりと、深く考えるようになったこともあってか以前よりは御言葉の味が分かってきました。

今でもふと刺激に引っ張られることも多いですが、少しずつ神様の「自然な味」を噛み締めて生活したいです。
刺激に引っ張られると、生活が破綻してしまうことが多いので…。

先ほど紹介した「久保さん」もそうですが、本当に良いものは、いつも身近にあるけど気づかないんですよね…。
「久保さん」は何か特別なことがあるわけでなく、日常にある「宝物」を一つ一つ噛み締めるような作品でして、久保さんと白石くんの関係もそんな感じなんです。一歩一歩、積み重なっていく感じ。
そのように、特別なことがなくても日常にある神様の働き、その一つ一つを大事にしていきたいと思いました。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。