おはようございます、satoです。
だいぶ前に、私の推しについて分析し、自分の内面の傾向と神様の良いところについてまとめてみました。
これは私がある摂理の指導者の方とお話しした時に自分の好きなキャラがいまして…と言ったときに
「そしたら、それを分析してみたらいいんじゃない?それを通して自分が神様のどこが好きなのかわかるようになるから」
と教えてもらって、やってみたことです。
実際にやってみると、各キャラを通して自分が神様のどこが好きなのか、またキャラを通しての神様の働きかけを見ているわけです。
ところで、このブログを読んでいる人は割とわかると思いますが、私はアニメ・ゲーム・漫画大好きなオタクです。
結構好きな作品は多く、(ここ飛ばしてOKです)
最近だと「異修羅」のアニメ楽しみ!ってなったり、「ウマ娘」3期始まっ「…ドゥラメンテ!?!?え、出るの!?今回誰出るの??」と毎回情報を楽しみにしていたり(アニメはまだ観ないですが…)、私が好きな「公女殿下の家庭教師」がついにアニメ化してめっちゃ喜んでいたり(「連れカノ」「いせれべ」と同じカクヨムコン4大賞受賞作で、どれも好き)、【推しの子】が面白いことになってる!!ってなったり(漫画は最近観れてませんが…)、イクイノックス強すぎん!?レコード勝利ですか…これ、父キタサンブラックも果たせなかった秋古馬三冠あるのでは…??となったり、(ここまで)
と、たくさん言いたいことがあるくらい色々情報収集しております。
そんな私ですが、実は結構真面目な信仰者なので、こんなことを密かに考えていました。
「神様以外の”推し”を作っても、良いのだろうか?」
今日はこのことについて考えていきたいと思います。
…私は内心真面目で小心者なところがあるので常に気にはしているんですよ。
今回はかなりの長文記事なので、目次作りました!
前提:出エジプト記20章から「大前提は神様」
まず、そもそもの話として神様を最優先にしないといけないというのはあります。これは出エジプト記20章、つまりモーセの十戒でも言われていることです。
20:2「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。
20:3あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
20:4あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。 20:5それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三四代に及ぼし、 20:6わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。
口語訳聖書出エジプト記20章2~6節
いわゆる偶像崇拝の禁止の聖句です。
そのため、神様の世界では神様以外のものを神としてはならないということが言えます。
ただ、今の日本が特にそうですが、今どき信仰を持っている人というのはそもそも少ないです。
それならこの聖句に反しない、と言えるでしょうか?答えは残念ながら否です。
私達が生活する中で神様のことを忘れてしまうこと、そして神様より優先させてしまうこと、これが現代における「刻んだ像」です。だから、もし礼拝より優先してライブに行ったり、イベントを見てしまったり、御言葉を聞くより先に何かを見ていることがありましたら、それは要注意です。
まず最優先は神様。これは信仰生活において絶対的な基本です。
つまり、まず最初に神様を信じて愛することは基本であり、大前提である、ということを注意します。
※そもそも神様を信じていない人にとっては、この後の議論は正直無意味ですよね…。
信仰と推しは共存するか?
この大前提を踏まえて、神様以外の推しを作ることは、大丈夫なのか?という問題を考察します。
まず、私は推しがいてもいい、という肯定よりの立場です。以下、その根拠となる体験談や聖句を挙げていきます。
「好き」という感情について
まず「好き」という感情について一つ言えることですが、この感情を押し殺すということはしないほうが良いです。
これは全ての感情に言えることです。(怒りや悲しみ、恨みと言った負の感情も含めて)
よく摂理には「怒ることは悪い性格だからなくさないと!」「寂しさは悪い感情だからあるのは良くない…」と考え、この亜感情をなくそうとする人が多いです。
実は私もこれをやりました。しかし、自分の感情を押し殺しすぎると精神が病みます。実際に経験したので断言できます。
最近もあることがきっかけで今まで集めてた五等分の花嫁グッズを手放そうと思った時期がありました。ところが、それを決心した瞬間から心に重度の虚無感と苦痛が来て…何もないのに涙が出るレベルで精神が病みかけました。
最終的には牧師さんに相談して「そこまでしなくてもいいのでは?」と言われたことで自分が勘違いしていたことに気づき、解放されました。
聖書を読むと神様も怒るし、寂しさを感じています。むしろ、神様は思いの外感情豊かな方です。
6:6主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、 6:7「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。
口語訳聖書創世記6章6~7節
4:13モーセは言った、「ああ、主よ、どうか、ほかの適当な人をおつかわしください」。 4:14そこで、主はモーセにむかって怒りを発して言われた、「あなたの兄弟レビびとアロンがいるではないか。わたしは彼が言葉にすぐれているのを知っている。見よ、彼はあなたに会おうとして出てきている。彼はあなたを見て心に喜ぶであろう。
口語訳聖書出エジプト記4章13~14節
ただ、怒りによって全てを投げ捨てるとか、そういうことはなさらない方です。その時は怒っていたとしても、ちゃんと反省して立ち返れば許して判断を変えることもあります。
3:10神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。
口語訳聖書ヨブ記3章10節
だから、我々が大事なのは出てきた感情を押し殺してなくそうとすることでなく、その感情がどこから来たのか分析し、感情に任せて動くのでなく、適切に対応することです。神様は実際そうされています。
以上は全ての感情に言えることでしたが、ここで「好き」という感情に戻ります。
「好き」という感情そのものは神様が与えてくださったものであることが多いです。
たとえば、男女が好きになる感情というのも、本来は以下の聖句を成すために神様が与えてくださったものです。
2:22主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。 2:23そのとき、人は言った。
「これこそ、ついにわたしの骨の骨、
口語訳聖書創世記2章22-24節
わたしの肉の肉。
男から取ったものだから、
これを女と名づけよう」。2:24それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。
アダムは神様が連れてきたエバをたいそう気に入り好きになったからこそ「これこそ、ついにわたしの骨の骨、肉の肉」…つまり本当にぴったり!!と喜んだわけです。
また、全ての創造物には作り手の性質が現れるという聖句があります。
神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。
口語訳聖書ローマ人への手紙1章20節
ここで、人間も神様の被造物であることを考えると人間が作った作品の中にも神様の心が入ることがあります。
また、全ての被造物が神様によって作られたと考えると、広義としては全ての創作物、あるいは人、動物…そこに神様の性質が少なからず入っていることがあるということです。
ここで、先程感情に対して「どこから来ているのかを分析する」ことが大事だと話しましたが、「好き」という感情も、どこから来ているのかをしっかり分析することが大事です。それは、そこを突き詰めると「神様」に行き着く可能性が高いからです。
夢中になれることは一つのタラント
また、「好きこそものの上手なれ」という言葉があるように、「好き」であるということは大きなモチベーションとなります。
「好き」であってこそ、自ら行うことができるからです。夢中になれることは一つの才能と言っていいです。
それが世間に役に立つのか、そこは関係ないです。それが個性と言っていいです。
これは「推し活」においても例外ではなく、私が体験した限りでは、(自分の決めたことや信仰から外れない範囲であれば)推し活を通して神様が助けてくださることが多かったです。むしろ、結構濃い経緯ができることがあります。
無論、普段の生活に必要なこと…仕事や家事等で経緯が作れるのも良いのですが、自分がやりたいと思うことを通しても神様との経緯は作れます。これは断言します。
私が経験したケースは以下の通りです。
- ライトノベル『Vtuberってめんどくせえ!』の書籍版を購入しようとした際に「初回特典がほしいです」とお祈りしたところ、初回特典がまだ残ってた!(読書感想文:『Vtuberってめんどくせえ!』)
- デュエプレで「信仰をモチーフにしたデッキで戦いたい!」と思って青白セラフィム天門で非公認VR以下大会(思い出のデュエマ杯)に参加したところ、色々噛み合って準優勝した(この話はまだ書いてませんが、どこかで書きたいところ)
- 映画『五等分の花嫁∽』を見るまでにあった祈りのしるし、特に入場者特典で明け方お祈りした通り三玖の色紙をゲットしたこと。しかも一緒に観に行った人は(推しの)四葉の色紙だった。
(『五等分の花嫁∽』観に行きました!(ネタバレなし・経緯編))
人によっては「?」と思うこともあるかもしれませんが、少なくとも本当に私がやりたいと思ったことは(自分にとって悪いものでない限り)神様が助けてくださることが多かったです。むしろ、自分にとってはこれも「生活」です。そこに神様が共になさるなら、最高の生活だと思いませんか??正直、かなり幸せです!
推しを通して助けてくださる神様
ここで、推し…作品内のキャラを通して助けられた経験について書きたいと思います。
実は、1月ごろにブログを更新しようとしたのですが、精神的にかなり辛いことがあって更新できなかった時期がありました。その理由ですが、端的に言いますと大事にしてた”もの”が亡くなってしまったということが起きたからなんです。詳しくは私以外の人が関わるので書きませんが…。
私はそこまで多く触れてはいませんでしたが、それでもかなりショックでした。どれくらいショックかというと、仕事中に人と話しているにも関わらず、「自分でもよく分からず」涙が出てしまうという状態になるくらいでした。
それでも、仕事はしなければならないのでなんとかやりましたが、次の仕事先に行くまでの間、ずっと心が苦しかったです。その時…
『その気持ち、分かります』
と明確に声が聞こえた気がしました。『五等分の花嫁』の中野五月の声で。
その言葉を聞いた瞬間、私の心は解かれました。慰められた…というのか、理解してもらえた…というのか分かりませんが。とにかく、それまであった深い悲しみがかなり軽くなりました。
このように「自分の空想」を超えて現実に聞こえるかのような感覚が極稀に起こるのですが、このケースはその一つです。
これは、五月を通して神様が自分の心を慰め、解いてくれたのだと信じています。
ところで、なぜ「五月」なのか、ですが。おそらくこの件については五月以外の誰でも私の心は響かなかった、かもしれません。
それは、中野家の五つ子のお母さんが亡くなった時に一番悲しんでいた(悲しみのあまり自らが母親になろうとしたほど)のが五月だったからです。それと同じくらい、自分も悲しかったのだと思います。だからこそ「共感してもらえた」という感覚が強かったのでしょう。
このように、適切なキャラを通して神様が助けてくださることがあるのです。
余談ですが、この件があるため五月に対しては和みや共感以外に「恩義」を感じております。
この件は本当に感謝しております。
推しを通して神様の心情を悟ることがある
また、推しを通して神様が助けてくださるだけでなく、推しを通して『神様がどういう方なのか』を悟ったり、もっと神様に近づきたくなることもあります。ここではその例を一つ挙げます。
五等分の花嫁の中で最推しは四葉なのですが、この四葉「元気で困った人を助けてあげる、自分より人が幸せになってほしいと願う」というとても良い子なのです。
しかし、それと同時に実は過去の自分の過ちをきっかけとして「自分を押し殺す」一面がありました。
「自分より相手を優先させる」ところも「間違った自分より他の人が幸せになってほしい」という自己犠牲/贖罪という一面があります。
この四葉の心情が如実に語られたのが今夏公開された映画でのエピソードです。私がこれを見たくて祈って準備したわけなのですが、実はこのエピソードに関する経緯があります。
ちょうど6月、メディアを遠ざけたり聖書を読み始める直前くらいの頃、礼拝の前後にお祈りをした時「神様のことがもっと知りたいです」という言葉が出てきました。
その瞬間、頭に思い浮かんだのが四葉の顔でした。
この映像が思い浮かんだ瞬間、この「自分の気持ちを押し殺し、周りをサポートし続けた」四葉のエピソードと共に
「この四葉の立ち位置、神様/キリストと同じなのではないだろうか?」
と気づきました。
人間が様々に行う中、「本当は私を愛してほしい」と願う神様。
しかし、神様は肉体を持たないので肉体で生きている人間にその気持ちを伝えることができません。
それでも、神様は一人一人を愛しているから、知られずとも、生きられるように助けてくださる…。
その心情が、このエピソードと重なったのです。
このことをきっかけに「神様のことをもっと知りたい、その心情をさらに知りたい」と聖書を読もうという気持ちが出てきました。その直後に、牧師さんとの相談を経て聖書を毎日読むことになりました。
そして、聖書を1ヶ月近くで一読し、現在じっくり二読目をする中で神様の世界にどっぷり浸かり、今までよりさらに深い段階で信仰を持つに至りました。
そんなわけで、四葉がキリストの心情(特に切ない方向)を持つ象徴であり、同時に私の信仰の土台を作るきっかけとなった一つだったりするのです。
聖書では?
聖書で「推し」について書かれているところは…そのまんまということはありません笑
しかし、次の聖句は参考になるかなと思いました。
10:9翌日、この三人が旅をつづけて町の近くにきたころ、ペテロは祈をするため屋上にのぼった。時は昼の十二時ごろであった。 10:10彼は空腹をおぼえて、何か食べたいと思った。そして、人々が食事の用意をしている間に、夢心地になった。 10:11すると、天が開け、大きな布のような入れ物が、四すみをつるされて、地上に降りて来るのを見た。 10:12その中には、地上の四つ足や這うもの、また空の鳥など、各種の生きものがはいっていた。 10:13そして声が彼に聞えてきた、「ペテロよ。立って、それらをほふって食べなさい」。 10:14ペテロは言った、「主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないもの、汚れたものは、何一つ食べたことがありません」。 10:15すると、声が二度目にかかってきた、「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」。 10:16こんなことが三度もあってから、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。
口語訳聖書 使徒行伝10章9−16節
この聖句はペテロがローマの百卒長コルネリオのところに行く前に見た幻です。
そこに「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」とあります。これは食べ物の幻を通して「今まで遠ざけていた異邦人」も神様を信じたいならば信じていい、そうしたのは神様だから、それを清くないと言ってはいけない、とあります。
もちろん分別しなければならないですが、「推し」もまた、神様が与えてくださったものであれば、それを清くない、罪である、とするのは間違いである、むしろそれを通して喜びを得て、神様に近づきなさいという考えになるのかな、と私は思います。
気をつけなければならないこと
このように「推し」と「信仰」は共存しうる、という可能性について言及しました。
要約すると自分の好きという感情、それ自体を神様が止めることはなさらない。だから、自分の好きという気持ちは殺さない方がいい。神様は推しを通して様々に悟らせることもある。ということです。
ただし、だからといって「好き!」という気持ちで行動しすぎてしまうこともまた問題があります。
「推し」に溺れすぎて信仰が崩れないようにする
まず、「推し」が好きだとしても、その気持ちが強すぎて信仰生活が崩れてしまうのは大変危ないです。
これは「推しを優先して礼拝に行かない」とかそういう分かりやすいものだけでなく、例えば
「推し」が出るライブ動画を見ていて夜ずっと起きてしまって朝起きられない
「推し」にお金を使いすぎて、生活ができない…
という「信仰自体が奪われずとも、生活が成り立ってない」という状態も気をつけなければなりません。
心にいつも神様への信仰があったとしても、実際に生活ができないと精神や肉体に影響を与えてしまいます。
これは私自身の悟りの一つなのですが、
「推し」によって生活が崩れることは、「推し」は願っていない
ということです。配信者、キャラクター、色々な「推し」はありますが、その多くは「幸せになること」を願って活動をしています。よって、「推し」をきっかけとして調子を崩してしまうことは、当人の願いではない、と言っていいでしょう。
また、推しによって信仰を失うことは、「推しに罪を負わせることになる」と私は考えています。
逆に「推しを心の支えにしつつ、自分が信仰をしっかり守ること」は「推し」にもまた義を与えることとも言えます。
私はこの考え、特に前者をかなーり強く持っています。
だからこそ、信仰を破綻させないように本当に本当に気を遣っています…!
「推し」が人の躓きにならないようにする
また、もう一つ「自分が良かったとしても、それを人が良いと思わない、場合によってはそれによって調子を崩すことがある」という事例もあります。これについては次の聖句があります。
8:8食物は、わたしたちを神に導くものではない。食べなくても損はないし、食べても益にはならない。 8:9しかし、あなたがたのこの自由が、弱い者たちのつまずきにならないように、気をつけなさい。 8:10なぜなら、ある人が、知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのを見た場合、その人の良心が弱いため、それに「教育されて」、偶像への供え物を食べるようにならないだろうか。 8:11するとその弱い人は、あなたの知識によって滅びることになる。この弱い兄弟のためにも、キリストは死なれたのである。 8:12このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、その弱い良心を痛めるのは、キリストに対して罪を犯すことなのである。
口語訳聖書 コリント人への第一の手紙8章8−12節
こちらはパウロ先生が偶像に捧げた食物を食べることについて言及している部分です。
イエス様を信じている人は当然「偶像は存在しない、神様が唯一の神である」と知っています。だから、偶像に捧げられた食物も単なる食物に過ぎない、神様が与えてくださったものと分かって食べるわけです。
しかし、それを見て信仰を持たない、または持って間もない人は「この人が食べるなら大丈夫」と対応してしまい、神様のことを考えなくなるかもしれません。
そうなったら、その行いによって罪を犯してしまうことになるのです。
これと同じように、「推し活」も、それ以外の自分の趣味も、「見ている人が苦しくなったり、迷ったりする」ことがないように気をつけなければなりません。
実は私、この点で一回やらかしたことがあります…。
具体的にはあるVtuberさんの配信を部屋で見ていた際に、ヘッドホンが使えなかったため音量を小さくして聞いていたのですが、部屋越しに聞いていた人に聞こえてしまって、しかもその人がそういうのを苦手としていたために調子を悪くさせてしまったのです…。
幸い、その人はすぐにそのことを教えてくれたので、すぐにこれを止めました。
…基本的にはヘッドホンで聞いていたんですが、本当に申し訳ない_:(´ཀ`」 ∠):
LINEのスタンプなんかもそうで、「みんながある程度受け入れられるもの」と「人を選ぶもの」がありますので、それをうまく使い分けていきましょう(使いたくなる気持ちもわかりますが)
「推し」があるからこそ、節度ある行いと言葉を
これは信仰のあるなしに限ったことではありませんが、「推し」があるからこそ、さらに節度ある態度・言葉が大事です。
これは私が比較的人を選ぶジャンルの推しだからなのですが、「大多数の人が受け入れていない」ものだと、「一部の悪いこと」によって「推し」そのものが悪く言われてしまうことがあります。これは本当に多くてですね…。
悪口や暴言はもちろん、「ちょっと興味を持った人」に対して「そんなくらいじゃダメ」と否定するなど、相手の「好き」を否定することも気をつけた方がいいなと思います。
これは自戒も込めて…。
むしろ常識の範囲で「好き」を発信することは、相手に興味を持たせるきっかけにもなります。
例えば、私はあるディズニー好きな方の発信を見てちょっと興味を持っていたりします。ベイマックスぬいぐるみほしいなぁ…笑
結論〜「推し活」と信仰生活〜
そういうわけで、色々な視点から「推し」と「信仰」の共存について考察してみましたが、ひとまずの結論として
良心の範囲で、神様に感謝しながら、人が嫌だなぁと思われないように、どんどん推し活しましょう
ということでいいのかなと思います。それを通して神様が働くことも多いです(これは私の過去記事も読んでいただければと思います)
そもそも、この「推し活」はちょっと宗教と重なるところがある、という話もあります。
その対象を自分の支えとし、それを生活の中心としている、という面では確かに宗教と似ています。
この推し活によって自分の生活がうるおい、喜んで生きられる、心の支えとなっている、という人も多いです。
私もそういう部分があります。信仰の壁…というかどん底にいた時には自暴自棄に陥ることが多かったのですが、推しがいることによって心がギリギリ折れず、自分を傷つけたり遠ざかることはなかったです。
その一方で、あまりに傾倒し過ぎて「推し」を神かのように崇拝している一面もあります。
これは【推しの子】の主題歌「アイドル」の二番の歌詞が一番象徴的だな、と個人的に思っています。
「アイは完璧でないといけない、弱い側面なんてないんだ」って言って、アイの「人間的な一面」を否定しているようにも思えるんですよね。こういう「悪い面」や「自分に合わない面」を見ないようにし、それがないように振る舞うことを求めている部分があります。
私が「推している」アニメや漫画のキャラはともかくとして、アイドルも、配信者も、「推し」は「生きている一人の心ある人間」です。(私はアニメのキャラも「心ある人間」として認識している一面はありますが)
だから、疲れもするし、苦しむこともあるし、時には自分の思いとは違うこともします。その時にそれを受け止めるか、否定するか、それは自由です。
人間同士だと合わないところがあるのは当然で「合わないところは理解しつつ、適度な範囲で応援する」、その上で、辛いことがあったら助けられる範囲で助けてあげて、嬉しい気持ちを伝える、それが一番お互いに良い「推し活」なのかな、と私は思います。
ひとまず、私は推し活を通して神様と近づき、信仰が良くなったので…全ての推しに感謝し、何よりも私を受け入れてくださった神様に感謝したいと思います!!
この記事を書いたブロガー
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「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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