アダムと堕落~目的を失うことの恐ろしさ~

おはようございます、satoです。

今週の御言葉の主題は私たちの希望は神様の創造目的だというものでした。この主題を聞いて思い出したことがあります。

私が心のエネルギーを失っている時、基本的には「自分が今現在の目的を見失っている」ということが多いです。
目的がないと、考えがボーッとして、生きる気力を失ってしまいます。
そのことを考えながら、今の日本、特に若者は「何のために生きるのか」、目的を見失っていることが根本の問題なのだと痛切に感じました。

こういう時、自分が何か間違いを犯して神様から離れてしまっていることが多いです。なので、神様のことを考えながら、罪を犯したことを悔い改めていくとだんだんと心のエネルギーが戻ってきます。神様と一緒に生きることが自分達の目的を成すことだからです。
これは聖書にも根拠があります。

更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、
地はあなたのためにのろわれ、
あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。
地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、
あなたは野の草を食べるであろう。
あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、
あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」

口語訳聖書 創世記3章17-19節

これはアダムが「善悪を知る木の実」を取って食べて堕落した時、神様に最後の宣告をされた瞬間です。
一般的には、この神様の言葉によって「死なない人間が死ぬようになった」と言われています。
しかし、私には別の意味を感じ取りました。

アダムは元々神様を愛して肉では一生、霊では永遠な天国を成すという目的がありました。
これは、人間の「創造目的」でもあります。そのために、アダムは御言葉を聞いて神様を愛して生き、時になればエバと結婚して家庭を作る…という御心がありました。
ところが、アダムが御言葉を守れなかったことによって、アダムは「神様を愛する」という目的を失ってしまいました。
「あなたは、ちりだから、ちりに帰る」というのは…その人生が肉で終わり何も残らない、という意味です。

昔はあまり考えていませんでしたが、「目的なく生きる」ということがどれほど恐ろしいことか、今なら切実に感じられます。

目的がなければ、自分がすべきことが見えません。
自分がすべきことが見えなければ、やりたい気持ちが出ません。あるいは自分が好きなことばかりをします。
しかし、それでも前進することなく、変化のない日々。
すべきことがなければ、何もしなければ、時間というものはあまりにも残酷に、長く続きます。

<急いで走る人>に、時間はもっと速く過ぎていく。

<やることがなく遊ぶ人>に、時間は退屈するほど過ぎて行かない。

<目標を目指して走る人>に、時間はあまりにも速く過ぎていく。

<急いで走らない人>は時間が速く過ぎていくことを知らない。

2017年6月21日鄭明析先生の明け方の箴言より

その苦しさを、私は摂理に来てから感じるようになりました。
特に、私は抽象的なことは理解できても、それを現実に当てはめることが非常に苦手で、目的を見失って生きている方がとても多いです。
だから、この苦しさをとても理解できるのです。

感謝することには、摂理の御言葉によって根本的な人間の生きる目的を与えられたこと、そして今現在自分がすべきことが何かははっきりしていることでしょうか。
目的がある、自分にはすべきことがある。
これだけで人は生きられるのです。

私自身も含め、多くの若者が「生きる目的」を得られることを本当に切に願います。
それが、すべての人が生きる御働きの、最初の奇跡ですから。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。