聖書研究:ルカによる福音書16章19~31節~信仰と富について~

おはようございます、satoです。
本日は日曜ということで、主日礼拝を教会に捧げました(о´∀`о)
昨日「はつこい」聞きながら初恋を振り返ったおかげか、いつもより新鮮で素直な気持ちで礼拝を捧げられたような気がします。

その一つのしるしというわけでもないのですが…
私はいつも礼拝の進行をする裏方の使命を行なっています。ただ、この使命準備に色々時間が掛かる上、他の使命者のリクエストが入って作業が増えることもあるので…時間が迫ると内心「うがーっ」となったりします_| ̄|○ il||liそしてこのように凹み、ちょっと自己嫌悪に陥ったりします。
しかし、今日は割と作業が多かったのですが、心なしか心にゆとりが生まれまして(о´∀`о)「うがーっ」となることなく嬉しい気持ちで終始礼拝を行えました(о´∀`о)本当に感謝です。

ところで、本日の御言葉の本文の一つがルカによる福音書16章19~31節です。

ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。 
ところが、ラザロという貧乏人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。
この貧乏人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。 
そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。 
そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、
その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。
アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。
そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。
アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。

口語訳聖書 ルカによる福音書16章19~31節

最近聖書を精読する習慣をつけようとチャレンジしているのですが、その中で「主日礼拝の本文を一回は精読する」ということをしておりまして、その中で「使われているところの前後を読んでみること」もやっています。
で、どうしてこのようなたとえの説教が出てきたのか、というのを分析してみると、その直前にこんな話が出ていたのを見つけました。

どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。

口語訳聖書 ルカによる福音書16章13節

イエス様が説教する中で、神様を信じて生きることと富を得ることは一緒にできない、という話をしていました。この話を裏付けるかのような話が別の福音書に書かれています。

イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。

口語訳聖書 マタイによる福音書19章21~22節

この青年は律法を全て守ってきた、と話していたのですが、最後に持ち物を売り払って施し、イエス様に従っていきなさいと言われて、その富を手放すことができなくてイエス様から離れてしまいました。
このように、お金をたくさん持っている人が神様に従うのは難しい、という話をしています。

余談ですが、鄭明析先生は元々貧困に苦しんでいて食べるものがなくて木の根をかじるほどだった、と聞いています。しかし、その中で神様を信じて祈り、イエス様に教えてもらった通りに行う中でこの貧困の問題を解決しました。お金を稼ごうとしたわけでなく、先に神様を信じて生きたのです。

ところが、このイエス様の説教を聞いた律法学者たちは次のような反応をしていました。

欲の深いパリサイ人たちが、すべてこれらの言葉を聞いて、イエスをあざ笑った。
そこで彼らにむかって言われた、「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとする人たちである。
しかし、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神のみまえでは忌みきらわれる。

口語訳聖書 ルカによる福音書16章14~15節

なぜイエス様を嘲笑ったのか、というと、このパリサイ人たちは立派な格好をしていて、比較的お金を持っていたからです。
神様を信じ、律法を守ってきた(と思っている)上でお金を持っている彼らからしたら、「神と富に兼ね仕えることはできない」というイエス様の御言葉は「愚かな話だ、自分たちは両方とも持っている」と思い込んでいたのでしょう。

しかし、実際のところイエス様は神様が遣わした救い主で、それに対して「愚かな話だ」と思う彼らは「神様のことを正しく信じている」とは言えなかったのです。もし仮に正しく信じているなら、イエス様の言葉に従って生きていたでしょうから。これについて、最近読んだ旧約聖書の聖句がピッタリ当てはまります。

1:11主は言われる、
「あなたがたがささげる多くの犠牲は、
わたしになんの益があるか。
わたしは雄羊の燔祭と、
肥えた獣の脂肪とに飽いている。
わたしは雄牛あるいは小羊、
あるいは雄やぎの血を喜ばない。
1:12あなたがたは、わたしにまみえようとして来るが、
だれが、わたしの庭を踏み荒すことを求めたか。
1:13あなたがたは、もはや、
むなしい供え物を携えてきてはならない。
薫香は、わたしの忌みきらうものだ。
新月、安息日、また会衆を呼び集めること――
わたしは不義と聖会とに耐えられない。
1:14あなたがたの新月と定めの祭とは、
わが魂の憎むもの、
それはわたしの重荷となり、
わたしは、それを負うのに疲れた。
1:15あなたがたが手を伸べるとき、
わたしは目をおおって、あなたがたを見ない。
たとい多くの祈をささげても、わたしは聞かない。
あなたがたの手は血まみれである。
1:16あなたがたは身を洗って、清くなり、
わたしの目の前からあなたがたの悪い行いを除き、
悪を行うことをやめ、
1:17善を行うことをならい、公平を求め、
しえたげる者を戒め、
みなしごを正しく守り、寡婦の訴えを弁護せよ。

口語訳聖書 イザヤ書1章11~17節

43:22ところがヤコブよ、あなたはわたしを呼ばなかった。
イスラエルよ、あなたはわたしをうとんじた。
43:23あなたは燔祭の羊をわたしに持ってこなかった。
また犠牲をもってわたしをあがめなかった。
わたしは供え物の重荷をあなたに負わせなかった。
また乳香をもってあなたを煩わさなかった。
43:24あなたは金を出して、
わたしのために菖蒲を買わず、
犠牲の脂肪を供えて、わたしを飽かせず、
かえって、あなたの罪の重荷をわたしに負わせ、
あなたの不義をもって、わたしを煩わせた。

口語訳聖書 イザヤ書43章22~24節

イザヤ書の聖句ですが、特に1章の方では燔祭や記念の祭りを行なっているが、それは形式的で悪を行なっていること、特にみなしごや寡婦といった立場の弱い人を守らなくて、悪を行なっている、と指摘しています。
また、43章には「私神様を呼ばなかった、神様をうとんじた」と話しています。

この聖句を踏まえると、パリサイ人たちは「富のために信仰生活をしている」という方が近い感じです。そのことをイエス様は指摘し、金持ちとラザロのたとえの話をしました。

この金持ちを見てみると、お金を持っていたにも関わらず、玄関で飢え苦しんでいるラザロのことを無視しています。
そして、自分だけで贅沢に暮らしていました。
その結果として、死んだあと永遠に尽きない火の中で苦しみ、あれだけ無視していたラザロに助けを求めるほどのことになったのです。このように地上で生きる間にした行いによって、死んだあと霊がどのような世界に行くのかが左右されるのです。

パリサイ人たちもまた、お金を持っているにも関わらず貧しい人を助けてあげなかったらこのようになる、ということを伝えるためのイエス様の説教なのだと思われます。

ところで、実際信仰生活をするためにはお金を捨てなければならないのか?お金を得ることはできないのか?という話について少し考察すると…。
まず、自分のものを持っていると意外と信仰生活をするのに苦戦するということはあります。これは別にお金に限らず、自分の中で持っている考え方とか、大事にしているものとかによって御言葉に従えないことがあるからです。だから、自分のものを捨てられるようにお祈りする人もいます。

一方で「じゃあ、信仰を持っている人は皆貧乏なのか」というとそんなことはまったくありません。
旧約聖書を見てみると、信仰の先祖アブラハムは元々かなりのお金持ちです。

13:1アブラムは妻とすべての持ち物を携え、エジプトを出て、ネゲブに上った。ロトも彼と共に上った。

13:2アブラムは家畜と金銀に非常に富んでいた。 

口語訳聖書 創世記13章1~2節

そして、その子孫もその財産を受け継いで生きていたので、そこまで生活に困ることはなかったでしょう。
また、ダビデやソロモンも王になったことで多くの財を得ています。エステルは王女になり、その父のモルデカイは王に重宝される人となり、財産も多く得ています。

ヨブは元々お金持ちでしたが、サタンによる試みによって全てを失いました。

1:1ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。 1:2彼に男の子七人と女の子三人があり、 1:3その家畜は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭で、しもべも非常に多く、この人は東の人々のうちで最も大いなる者であった。 1:4そのむすこたちは、めいめい自分の日に、自分の家でふるまいを設け、その三人の姉妹をも招いて一緒に食い飲みするのを常とした。 1:5そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた。これはヨブが「わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつも、このように行った。

1:13ある日ヨブのむすこ、娘たちが第一の兄の家で食事をし、酒を飲んでいたとき、 1:14使者がヨブのもとに来て言った、「牛が耕し、ろばがそのかたわらで草を食っていると、 1:15シバびとが襲ってきて、これを奪い、つるぎをもってしもべたちを打ち殺しました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。 1:16彼がなお語っているうちに、またひとりが来て言った、「神の火が天から下って、羊およびしもべたちを焼き滅ぼしました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。 1:17彼がなお語っているうちに、またひとりが来て言った、「カルデヤびとが三組に分れて来て、らくだを襲ってこれを奪い、つるぎをもってしもべたちを打ち殺しました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。 1:18彼がなお語っているうちに、またひとりが来て言った、「あなたのむすこ、娘たちが第一の兄の家で食事をし、酒を飲んでいると、 1:19荒野の方から大風が吹いてきて、家の四すみを撃ったので、あの若い人たちの上につぶれ落ちて、皆死にました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。

口語訳聖書 ヨブ記1章1~5、13~19節

しかし、最終的にその試みに打ち勝ったヨブはその財産をさらに増し加えました。

42:10ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄をもとにかえし、そして主はヨブのすべての財産を二倍に増された。 42:11そこで彼のすべての兄弟、すべての姉妹、および彼の旧知の者どもことごとく彼のもとに来て、彼と共にその家で飲み食いし、かつ主が彼にくだされたすべての災について彼をいたわり、慰め、おのおの銀一ケシタと金の輪一つを彼に贈った。 42:12主はヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭をもった。 42:13また彼は男の子七人、女の子三人をもった。 42:14彼はその第一の娘をエミマと名づけ、第二をケジアと名づけ、第三をケレン・ハップクと名づけた。

口語訳聖書 ヨブ記42章10~14節

このように、信仰を堅く守る人はむしろお金もたくさん得ています。

このことを踏まえて、ラザロと金持ちのたとえを通してイエス様は何を言いたかったのか、最終的な核心はこの聖句かなと思います。

6:32これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。 6:33まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

口語訳聖書 マタイによる福音書6章32~33節

実際、お金も私達が生活する中で本当に必要なものです。本当に…社会人になってこれを切に感じております_| ̄|○ il||li
当然、神様のこのことを知っているので、生きるためにお金が本当に必要です。
むしろ、正しい形で、神様の願うようにお金を使うことを願われているわけです。

大事なのはまず最初に神様を信じ、神様の御心に合わせて生きることです。それをするために、時にはお金を失うこともあるかもしれません(ヨブのように)。しかし、それでも神様を信じて生きることを捨てなければ、むしろ失ったものを取り戻して余りあるくらいのことが起こります。

というわけで、私も自分の持っているものをうまく手放しつつ、楽しく信仰生活をしていきたいなと思いました。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。