マリヤの香油の話と誤解について

おはようございます、satoです。
本日はこちらの聖句に関連して気づいたことを書きたいと思います。

12:2イエスのためにそこで夕食の用意がされ、マルタは給仕をしていた。イエスと一緒に食卓についていた者のうちに、ラザロも加わっていた。 12:3その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。 12:4弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、 12:5「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。 12:6彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。 12:7イエスは言われた、「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。 12:8貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつも共にいるわけではない」。

口語訳聖書 ヨハネによる福音書12章2−8節

今週の御言葉でも出ていたこちらの聖句。マリヤの有名なシーンです。
マリヤが「イエス様が苦難の道を行かれる」ことを察し、敬愛するイエス様に対して精一杯のもてなしとして高価な香油を足に塗って差し上げることにしたのです。
ところが、それを見た弟子たち(特にイスカリオテのユダ)が「なんてもったいないことを、それを売って貧しい人に施せば…」とケチをつけたわけです。それに対してイエス様が「するままにさせなさい。私がいつまでもいるわけではない」と話しました。別の聖句ではこうも書かれています。

26:10イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。 26:11貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。 26:12この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである。 26:13よく聞きなさい。全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。

口語訳聖書 マタイによる福音書26章10−13節

「この福音が述べ伝えられる所では、このことも記念として語られる」というほどでした。
これはどうしてそうなのか、というと…この聖句の時点でイエス様は「ユダヤ教の人たちに十字架に架けられる」という苦難の道…死に向かう道を行くしかない状況でした。
しかし、このことを知っている人は誰もおらず、弟子たちも「イエス様がイスラエルを治める王となる」と認識していた状態でした。イエス様がキリストだと悟っていたペテロも、実際どのようにして皆を救うのかは分かっていませんでした。
その中でマリヤは一人イエス様の苦難を察して、愛する心から香油を注いだのです。イエス様の心情を分かって行なったから、イエス様が慰められ「記念として語られる」というまでだったのです。

このように、マリヤはイエス様を愛し、その心を見たイエス様はマリヤのその愛の行いを受け取ったわけですが、これを見た弟子たちはどのように思ったのでしょうか。
「マリヤのように自分達も行わないと…」と考えた弟子がいたかもしれないし、「マリヤのしていることは良いことなんだな」と考えた弟子たちもいたかもしれません。ですが、中には

「イエス様はマリヤのことを”特別に”愛しているからマリヤのしているままにさせるのだ」

という間違ったことを考えた弟子もいたかもしれません。この「特別に」は「異性的に」と言い換えても良いです。そういう風に見た弟子もいたのではないかと思いました。
その証拠、というわけではありませんが、実は2つ目の引用した聖句の直後に

26:14時に、十二弟子のひとりイスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところに行って 26:15言った、「彼をあなたがたに引き渡せば、いくらくださいますか」。すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。 26:16その時から、ユダはイエスを引きわたそうと、機会をねらっていた。

口語訳聖書 マタイによる福音書26章14−16節

とイスカリオテのユダがイエス様を裏切ろうとした様子が書かれているのです。
これはあくまで私の考察の一つですが、イスカリオテのユダは「イエス様とマリヤが特別な関係にある」と間違って認識し、そのことで勝手に失望してイエス様を裏切ろうとした…という流れがあるかもしれません。

余談ですが、この「イエス様とマリヤが異性関係にある」という説は少なくない数のフィクションで聞く話で、私はダ・ヴィンチ・コードでこの説を読みました。しかし、実際のところ(摂理の御言葉で教えてもらった中では)イエス様はマリヤのことを異性的に愛していた、ということは一切なく、マリヤもイエス様のことを敬愛はしていたのですが、異性的なものではないと認識しています。
結構誤解されがちなので、念の為書きました。

神様の法は「その人が行う通りに接する愛の法」です。
イエス様も、その人が愛して行う通りに任せ、全てを受け入れてくださいます。
しかし、それは異性的な愛でなく、神様の愛によるものです。「異性の愛しか知らない人」がそれを見た時に「その人は特別に好きだからそうしている」と考えますが、実際のところは違うのです。
個人的には摂理に関する間違った話もこのような認識の違いから出ているのではないか、と推察します。

このように自分の知っている範囲で物事を見たらとんでもない誤解をすることは起こり得ます。
それを解決するためにはしっかり知らなければなりません。私も聖書を勉強する前はダ・ヴィンチ・コードの主張を鵜呑みにしていましたが、今となってはそれが違うことをはっきり知るようになりました。
常に正しく学んで、誤解のないように気をつけながら見ていきたいと思います。それと同時に正しい情報を発信して誤解を解いていきたいなとも思いました。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。