聖書研究:イザヤ書55章9節〜考えと実際の違いについて〜

おはようございます、satoです。
今週も日曜、ということで礼拝を教会で捧げました。
今週の御言葉の本文はこちらです。

天が地よりも高いように、
わが道は、あなたがたの道よりも高く、
わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。

口語訳聖書 イザヤ書55章9節

油断することなく、あなたの心を守れ、
命の泉は、これから流れ出るからである。

口語訳聖書 箴言4章23節

今日はこの中で、イザヤ書55章9節についてその前後も含めて深く読んでいきたいと思います。

まず、イザヤ書というのは大預言書の一つで、イエス様の預言が多く書かれています。
55章全体も主について話されている場面です。最初の方を引用しますと…

55:1「さあ、かわいている者は
みな水にきたれ。
金のない者もきたれ。
来て買い求めて食べよ。
あなたがたは来て、金を出さずに、
ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。
55:2なぜ、あなたがたは、
かてにもならぬもののために金を費し、
飽きることもできぬもののために労するのか。
わたしによく聞き従え。
そうすれば、良い物を食べることができ、
最も豊かな食物で、自分を楽しませることができる。

口語訳聖書 イザヤ書55章1−2節

この預言は以下の形でイエス様が来たときにこのように成就されました。

イエスは答えて言われた、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」。

口語訳聖書 ヨハネによる福音書4章10節

ここでイエス様が「生ける水」を与える、という話をしています。また、豊かな食物という話にも言及されています。

イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。

口語訳聖書 ヨハネによる福音書6章35節

このように、イエス様から伝えられる御言葉、そしてイエス様ご自身を豊かな食物として値なしに与えてくださいました。
イエス様は御言葉を伝えられましたが、そこに代価を求めることはなさらず、御言葉を聞いた人は満足しました。
これが生ける水であり、葡萄酒、乳でした。

耳を傾け、わたしにきて聞け。
そうすれば、あなたがたは生きることができる。
わたしは、あなたがたと、とこしえの契約を立てて、
ダビデに約束した変らない確かな恵みを与える。

口語訳聖書 イザヤ書55章3節

ダビデに約束した変わらない恵みとは…

しかしわたしはわたしのいつくしみを、わたしがあなたの前から除いたサウルから取り去ったように、彼からは取り去らない。あなたの家と王国はわたしの前に長く保つであろう。あなたの位は長く堅うせられる』」。

口語訳聖書 サムエル記下7章15−16節

ここかなと思います。ダビデに「永遠に慈しみを与え、その位を神様の前に堅く立てる」という約束が、主の御言葉を聞いた人にも成される事を話しました。

55:5見よ、あなたは知らない国民を招く、
あなたを知らない国民は
あなたのもとに走ってくる。
これはあなたの神、主、
イスラエルの聖者のゆえであり、
主があなたに光栄を与えられたからである。
55:6あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、
主を尋ねよ。
近くおられるうちに呼び求めよ。
55:7悪しき者はその道を捨て、
正らぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。
そうすれば、主は彼にあわれみを施される。
われわれの神に帰れ、
主は豊かにゆるしを与えられる。
55:8わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、
わが道は、あなたがたの道とは異なっていると
主は言われる。
55:9天が地よりも高いように、
わが道は、あなたがたの道よりも高く、
わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。

口語訳聖書 イザヤ書55章5−9節

5−7節では今までの律法にないことについて預言しています。
今まで律法はイスラエル民族にだけ与えられていたものですが、「知らない国民」が来る、ということ。これは新約聖書でこのように成されています。

12:20祭で礼拝するために上ってきた人々のうちに、数人のギリシヤ人がいた。 12:21彼らはガリラヤのベツサイダ出であるピリポのところにきて、「君よ、イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。 12:22ピリポはアンデレのところに行ってそのことを話し、アンデレとピリポは、イエスのもとに行って伝えた。 12:23すると、イエスは答えて言われた、「人の子が栄光を受ける時がきた。 

口語訳聖書 ヨハネによる福音書12章20−23節

また、今までは罪を犯した人は罰して、最悪死ぬこともありましたが、イエス様は罪を赦し、神様を信じるようにさせました。

このように今までの自分達の考えとは異なることが起こる、神様の考えは人の考えとは異なると話したのが礼拝の本文の御言葉です。

改めてイザヤ書のこの預言を見ると、イエス様の時代に実際に成されていることが確認できましたが、当時の彼らにとってはよく分からなかったのだと思います。5節の聖句を見て「自分達が栄える?」と考えるくらいなのかなと思います。

これは今の私たちにも同じことが言えまして。
自分達が普段考えている立場や考え、認識では神様の考えを認識することもできないでしょう。
しかし、神様の考えの方が最後まで見た時に絶対に良いのです。

例えば、神様を信じたときに「御言葉を行うことで損をする」ようなことがあったとしましょう。
日本だとキリスト教の信仰を持つ人は少ないし、中には宗教嫌いな人もいるので、そういう人とは疎遠になるかもしれません。
そのことで一時的に損をすることはあります。「自分が信仰を持たなければその人と仲良くできたかもしれない」という考えになるかもしれません。
しかし、将来まで見た時には必ず良くなる、というのが神様の考えです。

ところで、前日にサッカーをした際にちょうど8節の聖句を使って感想を話したんですよね。
その時は一緒に試合したチームがなかなかうまくいかなくて、最後に今までやらなかったようなポジション(ずっとサッカーをしてなかった人が一番後ろをやる)でやったところ、その後ろの人がロングシュートを決めて試合終了となったのです。
これを指して、「自分達の考えではいつもやっている私とかが後ろをやった方がいいと思ったけど、神様の考えは違った」という話をしたわけです。

しかも、その時「自分達は相談するのが苦手だなぁ…」となんとなく思ったら、今日の御言葉でまさしく「相談して行いなさい」という内容が出てとても驚きました( ;∀;)
やはり神様は全てをご覧になっているんだな、と改めて思います。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。