知識として知ることは、10%しか見えていないことだ。

こんばんは、satoです。

私は仕事で人に数学を教えることがあります。その中で私がいつも感じるのは

「知識として知ること」と「実際に問題が解けたり、それを使って判断すること」というのは大きな隔たりがある。

ということです。
たとえば、三角関数のグラフがどのような形になっているのか、これを知らない人はあまりいないように感じます。高校で大抵の人は一度見ているからです。

ところが、そのグラフをいざ自分で書いてみようとするとなかなかうまくできません。関数の値が分からなかったり、そもそもグラフの書き方が分からないということが原因として挙げられます。

また、グラフをしっかり書けたとしても、綺麗なサインカーブが書けたとしても、これを教えようとするとまた詰まってしまいます。
何を教えたらいいのか、改めて考えると思い浮かばないことが多いです。

そもそも、教えるというのは何を目的としているのでしょうか?
「相手が理解できるようにする」ために教えています。
理解できた!と思うときというのは、「自分の中でその事が構築された」時です。

だから、単に情報を見て「知識として」知るだけでは理解した、とは言えないんですね。
実際、教えようとすると「知識として」だけ知ったことはうまく言葉にできません。教えるためには「自分がどうやってそのことを理解したのか」を振り返り、自分の中に落とし込まなければなりません。
で、実際に教えてみるともっと自分が理解できます。言葉にしてみると、自分で振り返った時にうまく繋がらなかったことが繋がるからです。

で、「実際に活用する」とか「その知識で判断する」ためにはこのくらいの理解が必要になります。知識が自分の中で体系化され、自分の体になっている状態ですね。

幸い、私がこうやって理解できるところまで落とし込んだ結果、私が教えるときに「分かりやすい」とよく言われます。本当に感謝です( T∀T)

御言葉も、このようにそうなんですよね。結局ただ聞いただけでは「知識」で終わってしまいます。聞いただけで「できそう!」って思ってもいざやってみるとできないのは、「自分の中に落とし込めていない」からなんです。

そのためにはどうしたらいいのか…。
やっぱり最後は祈りと実践、そして人に教えることだ…と御言葉にありましたが、本当にそうなんだなと改めて思いました。

昨今、情報化社会が発展し、誰もが「情報」に容易にアクセスできる時代になりました。
子供でもネットで知識を得ることは簡単になりました。
だけど。その知識を如何に「自分のもの」にするのか、如何に「それを使い、判断するのか」は情報にアクセスするだけでは得られません。
そして、そこにこそ「人が教える」意味があるのだと思います。単なる知識の伝達、でなく「知識を自分のものにする」過程を教え、自分でも「知識を自分のものにできる」ようにする。
私もそのことを教えられる人になりたいと思います。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。