おはようございます、satoです。
本日は雅歌を通読して感じたことを書きたいと思います。
この雅歌という箇所はソロモン王が書いた「麗しい言葉」とされています。
…実は私が最初に通読を開始した時、この雅歌を読みながら「ちょっと恥ずかしい」気持ちになって読み進められなかったのです。私が聖書を読み進める時の基本スタンスが「書いてあることの風景を心に思い浮かべながら読み進める」だったのですが、この雅歌の表現が相当「大人」っぽくて、最初はそれがノイズになって想像が全くできなかったのです…センシティブな感じがしまして笑
ですが、その後何回も通読しながら段々と「これは神様が愛している人を見るときの愛の心情」を麗しい言葉で表現しているのだなぁと心に落ちるようになったのです。
おとめたちのうちにわが愛する者のあるのは、
口語訳聖書 雅歌2章2節
いばらの中にゆりの花があるようだ。
例えば、これは乙女を見る王様視点の表現です。
愛する人がそこにいるのは、いばらの中に百合の花があるようだと表現しています。ここで「愛していない人がいばらである」というわけでなく、たとえ他の人が美しいとしても、いい人がいたとしても、愛する人はそれ以上に美しく見える、ということを表現しているのだと私は感じました。
余談ですが、摂理の賛美の中に「聖地の白百合」というものがあるのですが、この雅歌の表現と繋がっていますね。
わが愛する者の若人たちの中にあるのは、
口語訳聖書 雅歌2章3節
林の木の中にりんごの木があるようです。
わたしは大きな喜びをもって、彼の陰にすわった。
彼の与える実はわたしの口に甘かった。
逆の視点でも同様です。
例えどんなに若い人がいたとしても、イケメンがいたとしても、お金持ちがいたとしても、愛する人の前には「リンゴの木の周りにある林の木」にしか見えません。リンゴの木の近くに来て休み、その実をとって食べて楽しむように、愛する人の下に来て共に楽しむのです。
摂理の御言葉で、神様を恋人のように愛しなさいという表現があります。
神様は文字通り私たち一人一人を「恋人のように」愛してくださっているから、その愛を受けて私たちも恋人のように神様を愛しなさい、ということです。
特に神様を新郎とした時、私たちが新婦のような立場である、とされています。
そう考えた時、この画家の表現のように、神様は私たちを見ているということが分かります。
これ以外にも雅歌は美しい言葉で愛を表現していますが、このように神様が私たちを愛しているのだということを考えながらもっと近づいていきたいなと私は思いました。
この記事を書いたブロガー
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「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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