それは、「聖書が正しい」ということからです。
もう少しいうと、イエス様の生が「すべての人の基準」となる生だから。
それに基づいて信仰を守る摂理、その御言葉は「イエス様の精神、神様の精神」に近づくためのものです。
イエス様が「正しい」かどうか、それは「正しさ」の定義によります。
「全て成り立つ」という意味での「正しい」
もし、「正しい」ということを論理的に「間違いがない」、つまり「イエス様の言っていることがすべて嘘でない(=現実との矛盾がない)」とするなら、それを検証できるのは「この先」となります。
旧約聖書の預言、たとえば
それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。-イザヤ書7章14節
は、旧約時代でなくイエス様が来られた新約時代に成就しました。
すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、
「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。
その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。-マタイによる福音書1章20-21節
このように、イエス様が将来起こると話したことが起こるか、言い換えると「イエス様の話したことは正しいか」はこの先になってみないと分からないところがあります。
もっとも、先に科学が解明した物理法則、その他の法則と矛盾するようなことは起こらないのですが。
先にあったことは、また後にもある、
先になされた事は、また後にもなされる。
日の下には新しいものはない。
「見よ、これは新しいものだ」と
言われるものがあるか、
それはわれわれの前にあった世々に、
すでにあったものである。-伝道の書1章9-10節
先にあったことは後にも成される。
逆に言えば、今まで起こらないとされたことは後にも起こりえません。
聖書は科学とは矛盾しないのです。
「倫理的」な意味での「正しい」
一方、倫理的な意味で、つまり「イエス様の生き方は道徳的である」とか「人間として正しい」という意味での正しい、というのはどうでしょうか?
キリスト教は「イエス様をキリスト、メシアであると信じる」宗教です。
このキリスト教の考えに根差した国、というのが世界に多いです。
ヨーロッパ圏、アメリカ、韓国など…。
これらの人はもちろん、イエス様が「人間的に正しい」ということを認めています。
しかし、これらの国でない私たちから見ても、イエス様の生き方が「正しい」というところは認められる、と感じます。
貧しい人、差別されている人に手を差し伸べ、憐れむ。
それだけでなく、人間として対等に接する。
不正に怒り、当時の権力者であるユダヤ教の指導者に対して毅然と主張する。
人々が罪人として誤解し、代わりに十字架の刑を受けてもそのことを許し、すべての人が救われる道を作る。
この辺りは聖書を信じる、信じないを問わず「人格の模範」といえるところではないでしょうか。
だからこそ、私たち摂理もイエス様の精神、生き方をできるように志しているのです。
キリスト教が正しいのか?という批判…
しかし、日本人の中で次のような批判をする人はいることと思います。
キリスト教を信じる国が戦争を起こしたり、不正をしている。これは矛盾ではないか!
という問いかけです。
これは確かにその通りなのです。
本来イエス様を信じ、その方を愛するならば
もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。-ヨハネによる福音書14章15節
この聖句にあるように、イエス様の御言葉を守り、その通りに生きるのが自然なことです。
ところが、そのような生を生きられていないところに問題が生じているのです。そして、それを見る人が矛盾を感じ、キリスト教に対し不信感、もしくは憎悪を抱くこともあります。
この「信仰と生活のギャップ」に、キリスト教はぶつかっていました。
わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。 わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。-ローマ人への手紙7章23-24節
使徒パウロも聖書の中でこのギャップに苦しんでいることを告白しています。
先の問いかけは、まさしく「キリスト教がぶつかっていた限界」でもあります。
鄭明析先生の「信仰と一致した」生
このギャップに敢然と向き合ったのが、鄭明析先生でした。
鄭明析先生は貧困と無学と様々な面において限界にぶつかったとき、聖書をひたすら読みました。それは「イエス様が再臨されたとき、私を救ってくれるだろう」という考えに基づくからです。
鄭明析先生が違っていたのはその考えです。
「イエス様が再臨されたときに必ず私を救ってくれる」という多くの人が持っていた考えと違って、鄭明析先生は「イエス様が来られた時に私に会ってくれるだろうか?来られた時に会えるようにもっと自分を備えなければ」と考えました。
そのことが聖書を深く読み、その意味を一つ一つ理解する姿勢につながり、生活の中で信仰を実践する姿につながりました。
鄭明析先生の生は「聖書の信仰」と相反せず、全く一つとなっています。
聖書に「しなさい」と言われていることは実践し、「するな」と言われていることは必ずしないようにし、たとえ自分の生まれ持っての性格が聖書と反していても必ず聖書の方に合わせようと直す努力をしました。
そうして、イエス様がかつて地上に来られた時の生と同じような精神…「愛の精神」をもって鄭明析先生は生きているのです。
そのような生に基づいて、摂理の御言葉は伝えられています。
よって、摂理の御言葉の正しさは「聖書の正しさ」、「イエス様の正しさ」とつながっている、というわけなのです。
摂理は正しいのか?
それでは、摂理人は皆正しいのでしょうか?
私たち摂理にいる人は皆鄭明析先生の生に触れ、その「聖書と一体になった」生き方、「イエス様の精神と一体になった」生を目指そうとしています。
しかし、私たちもまた自分を作っている最中です。それゆえ、摂理の御言葉通りに生きられていない部分も多くあります。
自分を振り返っても、いまだ摂理の御言葉で言われているような理想の生とかけ離れた性格、行いがまだまだあります。
そのようなところを見て、「摂理は御言葉ではああいうが、実際には…」という批判をしたくなる方もいるかもしれません。
しかし、我々摂理は鄭明析先生が話した信仰、聖書と一体になった生、平和と愛の理念を成すべく日々日々邁進しています。
その理念は決して聖書と矛盾するものではありませんし、人間的に見ても正しいものといえるはずです。
その理念を見て正しいと感じられるならば…
私もまた摂理が正しいと感じられるような生を目指していっています。
そのことを通して、より摂理が「正しい」と感じられるならば幸いです。
この記事を書いたブロガー
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「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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