摂理と救いの祈り。

おはようございます、satoです。
本日は、過去私が考えていたことについての話です。


私はかつて「どうしたら人を救うことができるのか」と考え続けたことがありました。
それは私が色々な作品を見て、「救いの物語」を作っていた時期でした。聖書に触れたり、色々な心の痛む出来事に対して純粋に救いたいという気持ちがそうさせたのだと思います。

人は誰しも心に傷がある。人が悪いことをするのも、必ず理由がある。

…「物語に出てくる人物は悪い人だったとしても仲間にしたい」と思って色々考えた結果、このような結論に至りました。

しかし、その人の心の傷をどうやってなくせばいいのだろうか?このことには答えが出ませんでした。
私は物語の中で主人公に「心の傷、悲しみ、怒りを焼き尽くす炎」の力を与えました。それによって苦しみから解き放たれた人たちは確かに味方になってくれました。しかし…

実際に果たしてそれがなくなったからといって、悪から離れるのだろうか?

また、悪人から救われた人は本当に主人公たちを見て正しい生活をするのだろうか?

もし、その人たちがいじめてたりものを盗んでいたとしたら…私たちはどうすればいいのか?
本当にそういう人たちを救えるのだろうか?

そういう答えのない問いについて、一人でずっと考えていました。

それから数年後、摂理に来て。
鄭明析先生は救いの方法について、一言で明確におっしゃいました。
「人間を救う方法」は<福音>に入っている。
と。

あんなに考えていた問題が、こんなところで答えももらえるとは思いませんでした。
鄭明析先生は福音を「神様がされたことを話すこと」とこれまた簡単に話してくださった。
…ということは、今私がこのようにブログを書いていることもまた「福音を伝えること、つまり人を救うこと」なのではないか!?

昔からどこかで夢見ていた「人を救う主人公」。今、私もそのようになりつつある。
この事実を見ても神様は、人の思いをすべてご存じなのだ、と改めて驚嘆するしかありません。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。