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次元を上げたい、というところまで行かない私へ。

次元を上げたい、というところまで行かない私へ。

人は、その先に希望があるかで走ることができるかが左右される。

こんばんは、satoです。

今週の摂理の主日礼拝の御言葉『いろいろな形象を備えてこそ美しく神秘的だ 次元を上げる方法』で、次のフレーズが出てきました。

<次元を上げること>はちょうど「急傾斜をのぼること」と同じです。
のぼって行く時は急傾斜で大変ですが、のぼって行ってみたら「平地」です。
だから<のぼって行く時、次元を上げる時>さえもっと「力」を出せばいいです。
のぼって行ってその次元に行ったら平地と同じで、そのときからはそれほど「力」を出さなくてもいいです。
だから<高く昇る時、次元を上げる時>そのとき最善を尽くすことです。-いろいろな形象を備えてこそ美しく神秘的だ 次元を上げる方法より

最近、自分自身の次元を上げなければならない、という感覚があるものの、どうしてもその一歩を踏み出せない状態が続いています。『人格が変わるほど行なう』ことに挑戦したい!という気持ちがあるものの、それより『辛い…』という感情が先行して、行う意欲が減衰する、という状態です。

これについて、神様が霊的な喜びがどれほど大きいのか悟れれば、切るべきものをこれ以上求めないようになるという御言葉がありました。この霊的な喜びというのが引用した御言葉でいう「平地」のことと思われます。
実際、私も切るべきものを切って、すべきことを行なう時どれほど良いのかはある程度感じています。が、よくよく考えるとそれがとても大きいことだ、とまでは悟れていないのかもしれません。
私達が良い生活をできる環境にあったとしても、それまで生きていた習慣、体質、脳の考えは残っています。だから、最初は昔のなれていた環境、生き方の方が快楽が大きく感じられます。これは一般的な脳の特性上しかたのないことです。

しかし、これも繰り返し行うと段々脳が新しい環境に慣れてきます。その期間は昔の環境に居た時間と新たな環境でどれだけ行なうかに左右されます。量と質、どれだけそれに没頭して行なうかによって霊的な喜びも大きく得られるか否かが左右されるのです。
つまり、今いる環境で「昔やっていたこと」を切って集中して行えば、その喜びがもっと得られる、というわけですね。
もちろん、感情的には「昔やっていたことを切って、新しいことを喜ぶ」ということに対してモヤモヤすることもあるでしょう…私の場合、これが若干強いのです。

ところで、どうして次元を上げなければならないのでしょうか?昔の環境から脱して新しく挑戦することについてどのような価値があるのでしょうか?
そのポイントは一言で言うと次元を上げたほうが楽になるということです。
つまり、慣れていた方法でやるより、御言葉に基づいて行なうほうが、最終的にはもっと楽になるから次元を上げなさい、という話です。

御言葉に沿って行なうと、最終的には霊が永遠な天国に行き、永遠に楽になります。
と言っても、それは天国に行ったら永遠に休むことができるという意味とはちょっと異なります。
天国に行っても仕事はあるし、やることはたくさんあります。あるのですが、それが今の肉の生活のように苦痛に感じない、むしろ喜んで行なうというのが天国の世界です。

これと同じように、肉の生活でも次元を上げて行えば後は楽になる、というのは次元を上げて行なって後は何もせずぐーたらしていたらいい、という意味ではありません。もしそうだとしたら、どちらかと言えば今休んでもあまり変わらない気がします(´・ω・`)
楽になる、というのは行なうことが苦痛にならない、喜びになる段階がある、ということです。

この辺りの認識を変化させないと、得られるものが何なのかよくわからずに行なうのですぐにやめてしまいます。私がそうでした(´・ω・`)
こうやって、行なうことの先に何があるのか、それをわかって行なうことが大事ですね(人´∀`).☆.。.:*・゚

以上、怠け癖のある私に向けての教育の記事でした(^^)

 

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。

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