不平不満と聞いて浮かぶ聖句…

こんばんは、satoです。

私は正直、気分のむらが激しいです(´・ω・`)
調子が悪いとひたすら辛い、という考えしか出ないし、神様のことも愛せません。
しかし、そういう時でも神様のことを考えたり、なんとか神様を愛そうとすると、神様は大きく助けてくださいます。
実際、そうなったときには感謝の心が溢れますが、同時に「ちょっと気まずい」ということもあります。だから、若干感謝と同時に悔い改めもするのです。思いっきり喜べない…というのが本心です(´・ω・`)

「困難にぶつかると、つらがり、神様に対して不平を言い、背を向ける。
そうして神様が助けてくれたとき、気まずくなる」

なんて御言葉がありましたが、実際その通りだなと思います(´・ω・`)
ところで、私がこういう状況に置かれるといつも思い浮かぶ聖句があります。

また彼らのうちにいた多くの寄り集まりびとは欲心を起し、イスラエルの人々もまた再び泣いて言った、「ああ、肉が食べたい。われわれは思い起すが、エジプトでは、ただで、魚を食べた。きゅうりも、すいかも、にらも、たまねぎも、そして、にんにくも。しかし、いま、われわれの精根は尽きた。われわれの目の前には、このマナのほか何もない」。(中略)モーセは、民が家ごとに、おのおのその天幕の入口で泣くのを聞いた。そこで主は激しく怒られ、またモーセは不快に思った。
(中略)
さて、主のもとから風が起り、海の向こうから、うずらを運んできて、これを宿営の近くに落した。その落ちた範囲は、宿営の周囲で、こちら側も、おおよそ一日の行程、あちら側も、おおよそ一日の行程、地面から高さおおよそ二キュビトであった。そこで民は立ち上がってその日は終日、その夜は終夜、またその次の日も終日、うずらを集めたが、集める事の最も少ない者も、十ホメルほど集めた。彼らはみな、それを宿営の周囲に広げておいた。その肉がなお、彼らの歯の間にあって食べつくさないうちに、主は民にむかって怒りを発し、主は非常に激しい疫病をもって民を撃たれた。これによって、その所の名はキブロテ・ハッタワと呼ばれた。欲心を起した民を、そこに埋めたからである。-民数記11章4~34節

これは民数記に書いてあるワンシーン。
モーセを中心にイスラエルの人々が出エジプトをして故郷であるカナンに向かっている最中に、イスラエルの人たちが苦しみのあまり「昔はよかった…肉食べたい…もうホントいや…」と不満をぶつくさ言いました。そうしたら、神様がその言葉を聞いてうずらを送るのですが、それを食べている最中に神様が怒りを発して欲心を起こした人を撃ってしまうという話です。

ところで、どうして神様は「彼らを撃った」のでしょうか?
この聖句をよくよく見てみると、彼らは神様が働いたことに感謝をしたり、自分の過去の発言を悔い改める描写がありませんでした。
神様は基本、悔いて立ち返る人に対しては見捨てることなく、無限に許しを与える方です。

そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。-マタイによる福音書18章21-22節

しかし、彼らは肉を与えてくださった神様に感謝をすることもなく、自分の発言や行為を悔い改めることもなく、ただ自分の目の前にある肉を食べることに夢中になっていました。
だから、神様が病気で彼らを撃ったのだ、と思います。

私は御言葉を聞くと不平を言ってはいけない、と考えはするのですが生活の中では不平が出ています。口には出さずとも心には出てきます…(´・ω・`)
だから、神様が働かれたとしても感謝、喜びと同時に申し訳なさが出るのですが。
それでも、神様が働かれた時にはもっとたくさん感謝して、もっと悔い改めて、自分の不平不満をなくしていきたい、自分の心を捨てていきたいと思いました。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。