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生活での緊張感と命の大切さ~新免講習から~

おはようございます、satoです。

今回は、新免講習で見た映像を見ながら感じたことのうち2つをまとめます。

車を運転する緊張感、そして心の緩み

まず、一つは自分が運転する時にいつも感じる「恐怖」を思い出しました。
最近長らく運転していなかったのですっかり忘れていましたが、運転しているときは「人を轢いてしまうかもしれない…」という不安を持ちながら緊張していました。
今回事故の現場を見たことで、改めて「自分は人を轢いてしまうかもしれない」ということを思い起こしたのでした。
こういう意識がありすぎるのも問題ですが、このように「自分が事故を起こすかもしれない」と考えれば、自分は絶対に事故を起こさない、でなく自分は絶対に事故を起こさないようにしようという考えが持てます。

事故の始まりは「自分は決してそうならない」という認識。
これを正して、自分の足りなさを認め、事故の重大さを認識して初めて緊張感が得られます。

…私は、生活の中でどこまでそれを認識できているのでしょう。
自分はきっと大丈夫だろう、なんて考えがどこかに無かったでしょうか。

自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。 -マタイによる福音書3章9節

かつてイエス様のときも、神様を信じるユダヤ教の人々に向けてバプテスマのヨハネがこのように話していました。
神様を信じる私だからこそ、もっと謙虚に、自分を振り返り反省しなければなりません。

命の大切さ

もう一つは命の大切さ、そして自分が今いることが奇跡だということでした。

子供を交通事故で亡くしてしまった母親の話を聞きながら、最初に思ったのは私の周りにいる人が交通事故に遭ったらどうしよう…ということでした。
私の家では交通事故で死んだ人はいませんでしたが、私の友達の親が交通事故で亡くなった…ということは実は2回ありました。
そのように、私の弟が、親が、教会にいる人が、(次の日が高校受験だったので)塾の生徒が…いなくなったら、そう思うと、とても悲しくなりました。

その後、帰りながらふと思いました。

そのように、私が突然亡くなることを主は願われていないということを。

私は今まで、自分が死ぬことについては何も考えられませんでした。
何も考えられない、というのは「自分の命が大事だ」という感覚がどうしても感じられない、ということです。
だから、心の何処かで「自分を大切にする」ということができず、しばしば危険なことをしていました。

でも、あの映像を見て、神様が私に生きてほしいと願っていることを感じました。

その時から、少し自分を大事に、自分が死なないようにしようと…認識して動けるようになりました。

私が「生きている」ことを実体として感じた瞬間

そもそも、私は「命の大切さ」をどことなく感じられていませんでした。それは摂理に来る前も、来てからも同じでした。
なんとなく、自分の死や人の死がどこか別世界のように…いや、「現実として認識できなかった」のだと思います。
だから、「死ぬ」ということに対してもあまり抵抗がありませんでした。怖かったですが。

それが、今や自分の命の価値を認識し、命が大切であることを感じられている。
これは摂理に来て、自分の命が大事である、と教えてくださったから、だけでなく本当に私を愛してくださる神様の愛を鄭明析先生とその御言葉を聞いて行なった人たちを通して受け取ったからでした。
また、自分自身も御言葉を実践し、祈ってきたからでした。

たぶん、今「自分の命が大事である」ということを感じられなくなっている人は増えているのではないか、と推測します。
ツイッターを見ているとなんとなくそれを感じるのです。人が死ぬかもしれない、あるいは殺すかもしれない「戦争」すら一種のイベントのように捉えている感じの発言を見ていると。
その人の気持ち、私もなんとなくは分かります。私もそうでしたから。
私は自分が現実に生きて、実体として存在していることを感じられませんでした。だから、自分を「空想世界の住人」と思っていました。
そういう世界として認識していると、自分が死ぬことも、生きていることも、どこか楽しくない。だから、もっと刺激のある、臨場感のある漫画やアニメにハマる人が多いのです。

形象石を多く見つけた2015年の8月、私は祈りとある条件を立てていました。
御言葉を実際に行なってみる、その条件を。その時に初めて実体というものが確かに存在することを認識しました。
その時から、だったと思います。神様を愛して、御言葉を実際に信じて、自分が生きていると感じられるようになったのは。

実践が実体を作り、神秘を創造する。

その御言葉の通り、実践した時に、私は自分が生きていることを実体として感じられたのでした。

自分の死んでいた感覚を蘇らせ、愛を感じられるようにしてくださった聖三位と主に感謝を捧げます。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代まであと一歩。数学者を志す大学院生で、教育系の仕事もしています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。

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