「無条件良い!」って聞くと身構えてしまう私の弁証法。

おはようございます、satoです。

私のブログには、摂理人の多くが話している言葉に対するアンチテーゼが最初に入る時があります。
たとえば、

摂理に来て失ったこと、得たこと。

こちらの記事は摂理に来て「得たこと」を書く人は多いけど、御言葉を聞く時に「勉強ができなくなる」とか「社会で上手く行かない」とかそういう不安を持っているという話を聞くからだし、私自身もこういう不安を持っていたことから、「摂理で失う」ということはあるのか、一つ一つ考えながら記事を作りました。

私は摂理に来て間もなくネットで「摂理がカルトだ」という話を聞きました。結構衝撃を受けたのですが、神様に愛されたのか今まで私は摂理にいます。
なので、他の人がいう「摂理がいい」という一面的な話に対して「本当にそうなのか?」と考える癖がありました。
その反面、自分自身摂理の御言葉、摂理の兄弟姉妹、摂理の教会が本当に良いとも実感しているので(そうでなければ今もここにはいないでしょう)、葛藤があるわけなのです。

そこで、摂理人がよく言う言葉に対して「本当にそうなのか?」と、あえて否定する主題を導入するのです。
ただし、摂理人のよく言う話を否定する、というのが目的でなく(もしそうだったら、私は摂理側としてブログを書かないです(笑))「その否定がどういうことなのか」を分析することが主な目的です。
見る人にとっても「良い!」という文章だけだったらちょっと怪しいと感じるのではないでしょうか。…そうでない人は私のこういう記事は読まないほうが良いです(笑)
少なくとも、私は人が無条件良い!という言葉を聞いたら怪しいと感じます(笑)
なので、私は「本当にそうなの?」って書くことにしています。

アンチテーゼと書きましたが、これは哲学用語で「弁証法」と呼ばれる思考法で、物事の本質を理解するための方法です。
これは一つの命題(テーゼ)を理解するために、一つのアンチテーゼと呼ばれる否定命題を置いて、その2つのつながりを考えるわけです。先程の記事で言うなら

摂理に来て得たことは多い(テーゼ)。しかし、本当に摂理に来て「失う」というものはないだろうか?(アンチテーゼ)

という感じで思考していくのです。
この過程の中で、「テーゼが正しいとして、どうしてアンチテーゼが出てくるのか?」というつながりや、中に潜む自分自身の矛盾を少しずつ見出すようになります。そして、この2つがアウフヘーベン(止揚)されることによって、2つの命題が統合されより本質的な命題(ジンテーゼ)が出てくるのです。先程の記事で言うと

摂理に来て失うことはあるが、それを補うくらいもっと良いものが得られる。

という結論なのです。
アウフヘーベンとは「命題の根本的な話を悟る」ことで、言い換えると「次元が上がる、引き上げられる」となります。
より次元の上がった理解になり、より一層摂理の良さを確信するに至るのです。

今後、こういった記事が多くなるかと思います。
現在も幾つかこういう記事を書いていますが、時になればアップしていきたいと思います。

それは「摂理の良さを実感する」という自分自身のためであり、また私のように摂理に対して一歩引いた目で見る(見てしまう)人に対して、そのもやもやが解けてほしいというためでもあるのです。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。