自分なりの愛し方

おはようございます、satoです。
前回の記事で「愛したいけど愛せない」という話について深掘りをしました。
その中で「自分は愛したいという気持ちはあるから、まずはその思いで行えばいいのではないか?」という話をアイキャッチにもなっている【推しの子】のアイの話から結論づけました。今日はこの話の続きです。

結論から言いますと、今日の礼拝で答えが出ました。しかも、それに伴うしるしも同時に起きていました…!

「行い」で愛を示すこと

この記事を書いている最中に同居人とこの話をしたのですが、その中で

「行いによって愛を示す人もいるのではないか?」

という話になりました。それを聞きながら色々振り返ってみるとしっくり来るものがありました。
まず、私が「愛せない」と感じていたのは子供のように、純粋に神様を慕い求める感情が構築できなかったり、喜びや嬉しさというポジティブな感情がすぐに出てこなかったりしていたからでした。
自分自身もそういうポジティブな感情自体がないわけではないのですが、それが持続しなかったり、すぐに出てこなかったりします。
また、小学生の頃から「ちょっとひねくれた」感情を常に持っていて、どうしても喜ぶより「負の感情を持つ」方が長かったです。
御言葉を聞いていると「いつも喜んでいなさい」という話が出たり、いつも良い方向に考えたりする人が多かったり…どうしてもそこが出来ない自分がいました。

その一方で、私は困っていたり、人に何かしてもらったりしたら、実際に行なって助けてあげることはよくしていました。
御言葉を聞いても、実際に行えるかどうかはさておき、まずやってみるということは多いです。
言葉で愛している、というより実際に行いで助けたりすることで愛を表現する人もいるのでは?というのが同居人の話で、それは私もそうだなと思いました。
また、私の家庭環境を見ても、両親は私に対して何かを言うことはしませんでしたし、何も干渉することはありませんでしたが、その一方で自分にすべきことはちゃんとしてくれましたし、実際に行いで助けてくれることが多かったです。
そう考えると、「行いで愛を表現する」というのはしっくり来ました。

実際に聖書でもこのように書かれています。

 14:15もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。

口語訳聖書 ヨハネによる福音書14章15節

21:28あなたがたはどう思うか。ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ』。 21:29すると彼は『おとうさん、参ります』と答えたが、行かなかった。 21:30また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた。 21:31このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」。彼らは言った、「あとの者です」。イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。 

口語訳聖書 マタイによる福音書21章28−31節

後者の聖句はまさに私のようです。
最初は嫌だと言ったり、うーと言ってはいますが、なんだかんだで行う、そんな私ですが、それでも神様の願う通りに行うならば、神様の御言葉を守るならば、それは神様を愛したことになるのです。

しるし①御言葉での答え合わせ

そういうわけで、実際に行うことで愛を示すというのが私の一番しっくり来る愛し方なのだということにし、そのように神様にお祈りしました。それが今日の礼拝前です。

すると、衝撃的なことが「2つ」起こりました。
そのひとつが今日聞いた御言葉がまさに「神様の御言葉通りに従順しなさい」という内容で、まさしくこの結論だったのです!

絶対に神様を信じ愛して生きなければなりません。主と一体です。従順でなければサタンが働きます。生の中で神様と主が言うとおりに「絶対従順」です。
神様、聖霊様、メシヤを信じても、聞き従わなければ、神様はその代価を払わせました。
だから絶対に従順でなければなりません。理解できなくても従順です。

聖書の歴史を見ると、時代ごとに神様がその時代に従って立てた人、救い人、使命者を遣わし、その人を中心にして御心を成してきました。その御言葉に聞き従わなかった人たちはみんな違う世界に行きました。聞き従った人だけが、ただ神様の御心を成して永遠な世界を相続しました。

2023年10月29日主日礼拝の御言葉「サタンと悪は裁き、滅亡」より抜粋

聞き従うこと、すなわち従順。
それが神様の願いなのです。

まさに私が祈っていた内容で、本当に衝撃を受けました。
同時に「喜んだり、ポジティブに受け止められない」ことで「神様を愛せない」と考えていたのはサタンの主管であるということにも気づきました。
本当にそれで良いのだと分かって嬉しい、と同時に「自分のブログ見てるんですか…???」ってくらいにピッタリ過ぎてえげつなかったです笑笑

自分は今まで「正しく生きること」「御言葉を守ること」をすることで神様を愛そうとしていたし、それをずっと心がけていました。そのことができなくてむしろ落胆することも多かったですし、それで自信をなくしていたこともありましたが、その方向は間違いでなかったのです。

また、その後の御言葉で「過去のネガティブな感情」もどこから来るのか見えてきたのですが、それが過去うまく行えなかったことからでした。だから、そのことは正直に告げて回復する必要があるのだ、と聞き、こちらの方向でも答えとなる方針が来ました…!

しるし②正しく行なったことで…

この「正しく生きること」について、実はその前にあるひとつのしるしがあったことに気づきました。

「五等分の花嫁」の一番くじで聖霊の感動に従って引くことで三玖のフィギュアを当てた話をしましたが、私の推しを知ってる人から「四葉は当てないんですか???」という話が続けて出ていまして…笑
そういうわけで、実は一番くじを続けて引いてみようかなと考えていました。

ところで、近くには何ヵ所か一番くじを引ける場所があるのですが、穴場なのかあまり引かれていない場所があります。
ある時、買い物をしたついでにそこで一番くじを引くことにしました。
そこは「先にくじを引いてから払う」後払いシステムになっていまして、そこで店員さんと話しつつ(五等分の花嫁を見てた人のようで話が盛り上がりました)2回ほど引きました。
そこではアクリルスタンド(ちなみに誰かは分かっていない…)とラバストを引き、店員さんと話をしながら帰ったのですが…。
なんと代金を払い忘れていたのです…。店員さんも私も気づかず…
そのまま髪を切りに行きまして、そこで五等分の花嫁のイラストを見た際に「あ、お金払ってない!!」と気づいて、慌てて戻りました。内心「これはまずい…」と思って慌てました。
そして、別の店員さんに「さっきここでくじを引いたのですが、お金を払い忘れていましたので、払わせてください」と正直に話して、お金を払いました。
その際にもう一つくじを引いたのですが、そこでなんと

二乃のフィギュアが当たったのです!!

「お金を払い忘れる」という私のミスに対して、「それをごまかす」のでなく「後から正直に話してお金を払う」という正しい行いをしたときにこれが当たったことを通して「このように正しく行うことが神様にとっても良いことである」ということ、「正しい行いをすることが私なりの神様への愛である」ということのしるしなんだなと悟りました。

この「二乃」のフィギュアである、というのがまた絶妙でして、彼女は「確かなのは誰よりも私が彼を好きなこと」というように、自分の愛について確信をしているんですよね。
礼拝前にそのシーンが浮かんだことを通して自分もまた「神様を愛していなければ摂理にいなかった」と自分の愛について確認をしていたことがありました。

これを組み合わせると「神様が願う正しいことをすることが自分の神様への愛の示し方である」という確信のしるしとして与えられたのだなと気づきました。
…本当にただで与えることはなさらず、必ず何か御心があるから与えられるのだなと驚嘆せざるを得ません。

結論

そういうわけで「神様に行いで愛を示す」ことが一番自分にとって良い、ということが分かったわけですが、これは簡単なことではありません。
自分の状況がいつも神様の言葉を行える状況とは限らないからです。それでも、神様の御言葉に従順できるように頑張りたいと思います。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。