私が摂理に来ることは、本当に奇跡のようなこと

おはようございます、satoです。
先日「私が摂理に来て変わったこと・変わらなかったこと」という話をブログでしたのですが、この中で
「私は私の意志が薄い」
ということを挙げました。
このことを考えた時、改めて自分が摂理に今いることが本当に奇跡的なことだなと強く感じました。

最近、色々な人から摂理に来た経緯を聞くのですが、その多くが人生に虚しさを感じてとか自分自身に限界を感じて成長したくて、あるいは今よりもっと良くなりたいという考えが出てきた時に摂理の人に出会った、あるいは聖書の勉強をし始めたと話します。
私自身もそういう思いが全く無かったかといえば…そうではないと思いますが、それと比べると私の場合は
聖書についての知的好奇心
が主だったと思います。

私は家に聖書があってそれを何も考えずに読んでいました。
目の前に本があるととりあえず開いてしまうような人だったので…。
そのように家で聖書に触れていたのと、当時の自分の中の物語のテーマが「救い」だったこと、それとファンタジーや異世界の法則に興味があったので、聖書の世界観・法則(たぶんBSのそれというより聖書に書かれている”異世界の物理法則”というニュアンスに近い)を知りたいというのが御言葉を聞いた理由です。

こういうふうに書きましたが、ひとまず聖書に興味があって、知的好奇心で聞いたという人もとても多いのかなと思います。そもそも日本は宗教があまり知られておらず、信仰を持っていない人が多く、「神様を信じてここに来た」という人も少ない…というか滅多にないですし、「自分を成長させたい」と考える人もそうはいないと思います。

ただ、私は私という存在に対する認識が薄い…と言語化すると変な感じなのですが、とにかく「自分に起因する行動」が得意でありません。自分の軸がうまく構築できないのです。これは色々な原因があるのですが、その一つに自分の脳の特性がある、というのがこの間の記事に書いたことでした。
そのため、御言葉を聞き進めても「自分が変わること」については今ひとつピンと来ないまま礼拝に参加し、摂理で信仰を守ることになりました。
御言葉が自分に必要だ、という認識が薄いまま信仰を守る人、というのはあまりないのではないか…と私は思います。

では、どうして私が摂理で信仰を持つようになったのか。
色々な理由はありますが、まず最初に挙げられるのは神秘的なもの、超自然的なものに対しての感度が高く、そういったものが好きですぐに受け入れられたことです。
摂理に来る前からいわゆる心霊番組やらオカルト的なものにはたくさん触れていて(親が好きだった)、だから、神様や霊といったものを神秘的だと思ってすぐに受け入れることができました。

次に挙げられるのは人に言われたことはとりあえずやってみるというタイプだったことです。
自分がない、という話をずっとしていますが、これは逆に言うと人に言われたことを否定する根拠が自分にないということでもあり、人に言われたことを否定しなかったことが、大きかったのかなと思います。
これが顕著だったのがお祈りについてで、「起きたらお祈りしたら良い」という話を聞いてそのまま実践したことが御言葉を教えてくれた人を感動させて、その後に進んだこともありましたし、スポーツ中にお祈りして実際に体力の限界を超えられた経験があったことで、後に信仰の岐路を迎えた際に守る方向に選べました。

そして、これが一番大きいのですが、愛に対する感度がとても高かったことでした。
元々自分は親になんだかんだで愛されていたと思います。その愛を受けていたから、愛された時にそれを受け入れ感謝できるようになっていました。
そして、以前も書いたように御言葉を聞いている途中に『シンフォニックレイン』というノベルゲーを通して「愛に対する感度」が上がっていたことで、神様の愛にも感動し涙を流していました。
この愛があったから、神様に対して今も感謝してこの摂理にいるのです。

色々自分が成長したい、自分を変えたい、という気持ちがなかった私ですが、摂理に来て少しずつ自分を分析し、自分が作られていくのを感じています。
それは自分が思い描いていた未来とは違いますが、それも神様の御心、神様の愛があってこそなんだなと、今の私は受け入れられています。
そのことが本当に奇跡的で、本当に感謝なことだなと思います。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。