聖書研究:ヨハネによる福音書3章12〜15節

おはようございます、satoです。
最近新約聖書をじっくり読み進めているのですが、特に旧約聖書で書いてあったこととどのように関連しているのかに着目しながら精読をしています。
今日はその中で新しい発見があったところを書いていきます。

ニコデモとイエス様

3:12わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか。

口語訳聖書 ヨハネによる福音書3章12節

これはイエス様のところにユダヤ教の指導者であるニコデモが来て、イエス様が霊のことを教えたけどニコデモがこのことを理解できず、そのことを受けてイエス様が話された言葉です。

ユダヤ教の人の中でもニコデモはイエス様が神様から遣わされた人だ、ということを早々に認めています。

3:1パリサイ人のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者があった。 3:2この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。

口語訳聖書 ヨハネによる福音書3章1−2節

これはニコデモがイエス様の行いを見て、「神様が共にしなければそのようなことはできない」と悟ったからです。

10:37もしわたしが父のわざを行わないとすれば、わたしを信じなくてもよい。 10:38しかし、もし行っているなら、たといわたしを信じなくても、わたしのわざを信じるがよい。そうすれば、父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう」。 

口語訳聖書 ヨハネによる福音書10章37−38節

別の箇所でイエス様はこのように話されましたが、実際にニコデモは行いを見てイエス様に神様が共にしていることを悟ったわけですね。
しかし、多くのユダヤ教の人たちはイエス様の行いを見ても神様が共にしていることを信じませんでした。それはさまざまな先入観(田舎からメシアは来ないとか、神様が直接来られると信じていたとか)があったからなのですが、ニコデモはそれがなかったということで、より精神と心がすぐれた人だったと言えます。

このことを受けてイエス様がもっと深いことを教えようと話をしました。

3:3イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。 3:4ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。

口語訳聖書 ヨハネによる福音書3章3−4節

イエス様の話していることは「これまで持っていた信仰を一旦置いて、御言葉を聞いて心を新しくすることがなければ天国を見ることができない」と話しています。
旧約時代は律法が神様の御言葉の全てだったのですが、新約時代になりイエス様が律法を成就し、さらに高い次元で信仰を行えるように新しい御言葉を宣布してくださいました。

5:17わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。

口語訳聖書 マタイによる福音書5章17節

5:21昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 5:22しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。

口語訳聖書 マタイによる福音書5章21−22節

ただ殺すだけでなく、心の中で人を憎んだり人に対して怒ることをしないように、と「内心」、あるいは「認識」をより良くして生きなさい、と話しています。今までの「形式的な行い」から次元が上がり、より自由に信仰を守れるようになったわけです。
この行いによって、それまで主人と奴隷のような主従関係で終わっていた神様との関係が「父と子」という段階にまで上がり、より生きやすくなるわけですね。
このより良くなったを指して「天国を見る」と言ったのかなと感じました。

ところが、このことをニコデモはわかりませんでした。
彼は「生まれ変わる」という言葉を文字通りに捉え「一度生まれた人がどうやって生まれ変われる(転生みたいなものでしょうか?)だろうか」と話しています。

3:6肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。

口語訳聖書 ヨハネによる福音書3章6節

この生まれ変わる、というのは「霊」のことです。
しかし、ニコデモはそれを肉の話として聞いてしまったので混乱したのです。

3:10イエスは彼に答えて言われた、「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか。 3:11よくよく言っておく。わたしたちは自分の知っていることを語り、また自分の見たことをあかししているのに、あなたがたはわたしたちのあかしを受けいれない。 3:12わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか。

口語訳聖書 ヨハネによる福音書3章10−12節

ニコデモはユダヤ教の教師、指導者の立場なのですが、そんな彼が霊のことが良くわからず、肉のことと霊のことが区別できないことを受けて、イエス様が話されたのですが…。
ニコデモ一人とはいえ「基本的なことが分からない指導者がいる」ということは、少なくともその人に教えてもらっている人は同じように基本的なことは分からないわけです。

10:24弟子はその師以上のものではなく、僕はその主人以上の者ではない。

口語訳聖書 マタイによる福音書10章24節

ちなみに、旧約聖書は霊の話(ダニエル署の幻とか、エゼキエル書に書かれている話とか)も多く書かれていますが、どちらかといえば「肉の話か霊の話か」は区別するのが難しいと感じました。私も結構混同しているところがあるように思います。
ニコデモがこうなるのも…まぁ仕方ないのか…?

しかし、イエス様が話しているのは先ほど私が解説したように全て「地上のこと」、つまり、自分達が行なって体感できる話です。それが分からなければ、天のこと…つまり、自分達の肉体で行なって実感できる話でなく、それこそ幻などでないと見ることすらできないような出来事はもっと分からないわけです。

モーセとイエス様

3:13天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない。 3:14そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。 3:15それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。

口語訳聖書 ヨハネによる福音書3章13−15節

この聖句について、まずモーセの話を解説したいと思います。

21:4民はホル山から進み、紅海の道をとおって、エドムの地を回ろうとしたが、民はその道に堪えがたくなった。 21:5民は神とモーセとにむかい、つぶやいて言った、「あなたがたはなぜわたしたちをエジプトから導き上って、荒野で死なせようとするのですか。ここには食物もなく、水もありません。わたしたちはこの粗悪な食物はいやになりました」。 21:6そこで主は、火のへびを民のうちに送られた。へびは民をかんだので、イスラエルの民のうち、多くのものが死んだ。

口語訳聖書 民数記21章4−6節

イスラエルの民がモーセと共にシン荒野を彷徨っていた頃、民たちが神様とモーセを恨んで不満を呟きました。
ここで火のへびが現れ、へびに噛まれた民たちの多くが死んでしまいました。

21:7民はモーセのもとに行って言った、「わたしたちは主にむかい、またあなたにむかい、つぶやいて罪を犯しました。どうぞへびをわたしたちから取り去られるように主に祈ってください」。モーセは民のために祈った。

口語訳聖書 民数記21章7節

これを見て生きていた民は悔い改めモーセに祈ってもらうように話しました。
そこでモーセが神様に祈ったところ、

21:8そこで主はモーセに言われた、「火のへびを造って、それをさおの上に掛けなさい。すべてのかまれた者が仰いで、それを見るならば生きるであろう」。 21:9モーセは青銅で一つのへびを造り、それをさおの上に掛けて置いた。すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた。

口語訳聖書 民数記21章8−9節

神様はモーセに火のへびの像を作り、それを竿の上にかけ、見る人が生きられるようにルールを定めました。
そしてモーセはその言葉の通り青銅でへびを作り、さおの上に掛けました。
神様の言葉を信じ、それを見た人は死を免れました。

このことを受けてイエス様は「人の子も天に上げられなければならない、信じた人が永遠の命を得るためである」と話しています。
モーセが作ったへびを見た人が生きたように、イエス様を信じた人が生きられるように「上げられる」必要がある、ということです。

これはユダヤ教の人たちが霊のことが良く分からない…つまりイエス様の話を良く分からないことで、イエス様を信じられず離れることを予見したのだと思います。
そして、最終的にイエス様を迫害し、イエス様を通して成す御心が難しくなったために、「十字架を負って」生きる道を作らなければならない、と考えたのかもしれません。

個人的に思ったこと

ところで、これは私の個人的な感想ですが…。
もしユダヤ教の人たちがイエス様の話していることを理解できて、イエス様が考えていたように「十字架を負う」ことなく、御言葉を続けて伝えられていたとしたらどうなっていたでしょうか?
その時は「天に上げられる」ことはなかったのでしょうか?
私はこれについて…「それでも天に上げられることは起こるのではないか?」と思いました。
それは、イエス様が肉体を持っていて、いつかは肉体が死んでしまうからです。

この聖句に書いてあるように「イエス様は天から遣わされた人」です。その人以外には天のことは知ることはできません。
そして、次のような聖句もあります。

16:7しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。

口語訳聖書 ヨハネによる福音書16章7節

イエス様が去ることによって残された人を助ける助け主…つまり聖霊が送られる、と書いてあります。
また、イエス様が天に上げられることで残された人を助けることができる、とも書かれていた場所があります。

このことから、どのような形であれ、イエス様を信じた人が生きられるように「天に上げられる」ことは起きていたと思います。もっとも、実際に起きた十字架はその中でも一番労苦した道なのではないかと考えました。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。