苦手なことは苦手なのです…

おはようございます、satoです。

私は苦手なことがたくさんあります。
その理由は先天的な特性だったり、過去の経験だったり、いろいろありますが…。
その一つが「目上の人と接すること」です。

いつも、目上の人と接するときは緊張してしまいます。
「私が変なことをして怒られはしないか…」と。あるいは「もっと良くしてあげたいのだけど…」とか。
摂理でもたまに指導者の方を迎えるときはありますが、内心ドキドキしています(´・ω・`)
「あれをしよう、これをしよう…」と頭では浮かぶのですが、疲れていたりして大抵のことはできなかったりします(´・ω・`)

「本当はあれをすべきだったのに…」「できなかったから不快に思われてはいないだろうか…」

こんなことをいつも考えてしまいます。
それで、目上の人と接するときには過度に緊張してしまいます。

実を言いますと。
「神様にいつも仕えていなさい」と言われた時もこのことが思い出されてしまいます。
つまり、「神様にいつも仕えていると、緊張してばかりで疲れてしまうな…」と考えてしまうわけです。
でも、天国は「神様と24時間いつも共にする」世界。…はたしてどうしたら…(´・ω・`)

というわけで、私がどうしてこのような考えになるのかを分析してみました。

目上の人と接するときに緊張することは誰しもがあることです。
その理由は様々ですが、大統領や天皇陛下を目の前にして緊張しない人がいないのと同じ感じです。
緊張すること、それ自体は悪いことではありません。緊張しなかったら粗相をしてしまうかもしれません。そうなったら、大統領の目の前で粗相をしてしまったら…(;’∀’)
ドキドキですよね。それによって、もっと自分の行いが磨かれるのです。

でも、問題なのは「あれをすべきだったのに…しなくて怒られるのではないか…」という私の「否定的な考え、落胆」をする癖。
自分はダメだ…と認識している自分の否定的な考え。
そこを直したら、もっと気楽に接することができるのかも。

実際、摂理の指導者と呼ばれている人たちは皆いい人です。
一緒にいて面白いですし、とても親身になってくださいます。
時には厳しく話すこともあります。…あ、これが私苦手なのかも…(´・ω・`)
厳しく話されたときに「怒られている、自分が否定される」と錯覚して怖くなるのか。
もちろん、指導者が否定してくることはありません。しかし、私の過去の感情の傷によってそのようになってしまうのです。

まだ心の奥底に「辛かったけど無理やり抑えていた」ものがあるのかもしれませんね。

このように、苦手なものは摂理に来ても苦手なのです。
しかし、摂理では神様との対話によって解けることが多くあります。
なので、時が経つと苦手でなくなることも多いです。私も昔より苦手なものは減ってきました。
そうやって、神様が願うペースで、一歩一歩前に進んでいきたいです。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。