「自分の予想とは異なる」発言をするキャラクターたち。そして、それがしばしば現実に現れること。それは私にとって…楽しい、というよりはどこか「苦しさ」がありました。
たとえば、私があるとき学校で声掛けをして、連絡先を交換できたとき私は嬉しかったのですが…。
そのとき「突然(その週の)キャラが出てきて、自分を褒めてくれる」という空想が動きました。正直、これは「恥ずかしい」。そういう意味で空想のコントロールが効かずしばしば心が苦しくなりました。
自分が外で美しい風景を見ているときも、何かをやっているときも、常に共にしているキャラクターたち。それがまるで自分の心を代弁するかのように「わー!きれーい!」と話す。そういう状態をみて…私の心が分離しているかのように感じていました。
もちろん、そういう彼女たちの動きを見ながら「物語」を作ること自体には楽しさがあったのですが、「自己同一性」は…かなり崩壊しかけていました。
終盤には「見えないけれど存在している感覚」まで感じるようになりました。それは御言葉の中で「自分を助ける霊がいる」という話があったことで「もしかしてこのキャラクターたちも?」と思い込んでしまったからです。ある意味で楽しくもありましたが、「現実と空想」の境目がなくなる感覚が本当に怖くもありました。
…それをわかっていたのか、あるいはそのようになることを予測していたのか。
キャラクターの中で「この「ハコニワノセカイ」から、私たちから離れて。」と私に言う声が聞こえたのでした。
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「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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