「御心の点」という賛美について~「始動」と完璧主義の葛藤~

おはようございます、satoです。

摂理の賛美に「御心の点」というものがあります。

摂理の聖歌隊賛美『御心の点』@摂理のユートピアだより

この中に「神様 始めに点から始められる」とあります。

数学を研究している身としては、この言葉に色々考えさせられました。
そもそも「点」という概念が必要なのかどうか、現在の数学ではGrothendieckが考案した「topos」という概念から「点のない幾何学」というものを考えることができるからです。
果たして「点」が必要なのかどうなのか、そして「点」とは数学においてどういう役割をするのか、「点」によって全てを表すことができるのか…。
最後の話は、個人的には以下の理由で否定的です。

自分の見解※本編とは関係ないので、飛ばしてOKです

現在の数学における主流は「集合論」です。集合論は「元」の集まりによって全てを表す、いわば「点」の世界の話です。
ところで集合論において「自然数全体の集合」と「実数全体の集合」は一対一対応しない、ということが知られています。この証明は「カントールの対角線論法」として有名で、より多くのところで同じような証明方法が使われています。
直感的には、実数全体の集合から一つ元を取ってきた時に

    \[0.123232846569358365578493956738395782984678374\ldots\]

という形で「小数表示では正確に表すことができない」という形で理解できます。
(もし、小数表示で正確に表せるなら、自然数全体と一対一対応しそうだから)

※もちろん、実数の中には「小数表示とは別の形で」正確に表せるものもあります。
(例:\sqrt{2}は「2乗して2になる正の数」として正確に表される。
数式で書くと「x^2-2=0の解(のうち0より大きい)」という感じ。このように代数方程式の実数解として表されるもの全体を「代数的実数」といいます。これは実は自然数全体と一対一対応することが知られています。)
ただ、適当に実数を取ってきた時に「正確な表記」を持っている可能性は低めであることが知られています。

※ここまで書いて、「私のイメージする”正確な表記”」とは「自然数+αを用いて書き切れる」ということを意味していると気づきました。
また、上の意味で正確な表記ができるならば自然数全体の集合と一対一対応すると考えているのですが、果たしてこれは正しいのでしょうか?
(例:整数は自然数と自然数に-を付けたものと0を合わせたもの(0が自然数かどうかはここでは考えない)、有理数は2つの自然数の組(と-)で表される、等。これらは自然数全体の集合と一対一対応している)
ちなみに、「有限個の自然数の組と一対一対応している」ときは自然数全体と一対一対応していることが知られています。

個人的にはこれを「そもそも実数というものを点の世界で表記すること自体が間違っているのではないか」という風に考えています。
実数を正確に表記するには「点」でなくもっと別の何かが必要なのではないか…と漠然と考えているのです。

また、現在数学で主流となっている「圏論」は「元」だけでなく「元の間の関係」まで含めて考えています。
toposもこの圏論を用いて定義されていますが、このことから「点の世界」で見てきた集合論主体の世界から変化するのではないか…と考えているのです。

以上、私の妄想でした。

本題:行き過ぎた「完璧主義」

全く話は変わって、これが本来私が話したいことなのですが、つい最近あることを通して「私自身の弱点」に一つ気づきました。
それはあまりにも理想が高すぎるということです。

具体的には、たとえば漫画を書くとなったら「世の中で販売されている絵やら物語やらを作りたい」と考え(見たものを真似したいから)、それを実際に行おうとするわけです。
ところが、世間で有名な漫画はそれこそ数年から数十年かけて努力をし続けて得られた技術の上に作られるものなので、そんな風には作れないのです。
しかし、私の中にあるイメージはそれしかないので、実際にやってみた結果がイメージと異なると「これじゃない…どうしてこんな駄目なものなんだ」と嫌悪感が出てしまいます。

これは私がずっと使命を行なっていたとき、特に前に出て行う使命(賛美を導く人とか代表祈祷とか)だと顕著に出ます。
そもそも、私自身の姿を見ること自体嫌悪感がありました。というか、今でもあります…。

ところで、この話と「御心の点」という賛美の繋がりでもあるのですが、摂理において「気づいた人が使命者だ」という考えがあります。
これはあることに対して感動があるときはひとまずやってみることが大事だということです。
「自分自身がうまくやれるかどうか」ではなく「やること」を重視しているわけです。
私も「人を巻き込むようなあること」を最近行なったのですが、それは自分自身が「やってみたいな」と思ったことがきっかけでした。
ただ、これは私自身やるのが初めてだったので、相当に”下手だった”と自己認識しています。

しかし、実際に「始める」人がいれば、それを通して神様が働きかけてくださいます。

私の苦手な「人との疎通」を補助してくれる人がいたり

もっと私のやっていることに近い使命を行なっている人が協力してくれたり

先に行っている人が送られたり

そのようにして、神様は最終的に理想的に成し遂げるのです。

詳しいことは諸事情で書けないのですが、この経験を通して大きく私の認識が変わりました。それが

「私の成したいことがあるなら、それが別の人によって成されても問題ない」

「拙くても行うことが大事だ」

ということです。
今まで私は「自分の中にあるものは自分自身でやりたい」という感情が強く、また「その中にあるものを完全に再現したい」という願望が強かったのです。それが、今回のことで覆りました。
結局、神様の願われることであるなら、最初が下手であっても、最後にはそれを通して理想的に成されるのです。

「天の前に見せるならばそれなりの条件が必要」とか「やはり準備することが大事だ」とか、そういう話もありますが、完璧主義が強すぎる私みたいな人には「ひとまず下手でもやってみることが大事だよ」という考えも頭に入れてほしいな、と思います。

余談:それでも消えない自己嫌悪

それでも、嫌悪感が消えていない場合、それはもしかすると

「その時に自分が神様を呼び求めていなかった」か「見ているときに自分自身の視点で見ている」ということがあるかもしれません。

それは、今後の課題かな、と思います。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。