「誰も傷ついてほしくない」という願いの話

おはようございます、satoです。
本日はここ最近の情勢を見てのお話です。

本当に最近、痛ましいニュースが…。

【写真で見る】「戦争状態」、パレスチナ武装勢力とイスラエルが武力衝突-BBC News

7日にパレスチナの武装勢力「ハマス」がイスラエルを襲撃。
近くのイスラエル南部で行われていた音楽祭の参加者が巻き込まれ、多くの人が犠牲に…。
そして、イスラエルは反撃し「戦争状態」になってしまいました。

イスラエルとパレスチナの戦争の背景には2000年前から続く様々な経緯があり、片方が善、片方が悪ということがはっきり言えない、難しいものがあります。
ただ、一刻も早く戦争が止まるようにお祈りをします…。

この話とは直接関係ないのですが、私はデモ行為というのがとても苦手です。「怖い」から。
これは過剰に相手をバッシングするとか、暴力行為をするとか、そういうものではなく、もっと単純に「何かに対して反対すること」が怖く感じられます。
かと言って「何かに対して賛成する」のも怖いです。「主張すること、どちらかに傾くこと」が怖いのかもしれません。

この心理について、私なりに分析をしてみようと思います。

例えば、政府に対して様々に主張する集まりを見ると心が不安になります。
「自分に対して、賛成を求められている」ように感じて、自分があまり関心を持っていないことに対して「責められている」感じがするからです。
この「自分に対して」というのは、本当にその人たちが「自分」を対象にはしていないとは思いますが、それでも「誰かに賛成してもらいたい」という感情があるのを感じ取って「自分が何かできることはないのかな」と考えている、という流れです。
一方で、自分自身としてはその主張に対してはあまり賛成できないことが多いです。心の中で賛成しても、一緒に主張するというのはできないです。自分の生活もあるのですが、これとは別に主張をしたくない理由がありました。

それはそういった主張をすることが「誰かを傷つける」と感じているからです。
これは相手をバッシングするようなことをしなくてもそうで、「こうしない政府が悪い」と主張しているように捉えているんだと思います。
実際、私自身何か自分のしていることについて「これはダメ」という感じのことを言われると自己肯定感がガクッと下がる傾向にあります。これは「自分のしていること」に対する指摘を「こうしようとしている自分の心」の否定と捉えているからだと見ています。
無論、自分は完全な人間でないので、絶対違っていることもあります。自分が完璧だとは思ってもいないし「こうしたらいい」というアドバイスに対してはちゃんと肯定できます。ただ、「否定される」ことをうまく受け入れられていないのだと思います。

この「否定される」ことに慣れていない、「行為」の否定を「人格」の否定と捉えているのは、なんとなくですが私の気にしすぎというわけでもなく、ある程度の人は「行為」から「人格」を判断し、

こういう悪いことをするこいつは悪いやつだ

という風に考えているのではないでしょうか。
この判断方法自体は聖書にも書かれています。

6:43悪い実のなる良い木はないし、また良い実のなる悪い木もない。 6:44木はそれぞれ、その実でわかる。いばらからいちじくを取ることはないし、野ばらからぶどうを摘むこともない。 6:45善人は良い心の倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。心からあふれ出ることを、口が語るものである。

口語訳聖書 ルカによる福音書6章43−45節

つまり、「実」である行いを見て「木」であるその人を見ることができる、というわけです。
悪い行いをする人は悪い心を持っているし、良い行いをする人は良い心を持っている、という風に。
しかし、一方で神様からこのような指摘をされてもそこまで落ち込むことはなかったりします。

それでは何が違うのか、というと…「悪い人を拒絶する」心なのかもしれない、と思いました。
神様は悪人に対しても悪を指摘し、裁きはしますが、根底にはすべての人が天国に行ってほしいし、神様のもとで幸せに生きてほしいという想いがあります。

18:23主なる神は言われる、わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がそのおこないを離れて生きることを好んでいるではないか。

口語訳聖書 エゼキエル書18章23節

人はそこまでできません。私も正直受け入れられないタイプの人がいます…。
でも、「拒絶される」と心は傷付きます。私は人と行動や考え方が違う(そもそも発達障害の傾向を持っているため、多くの人と認識のベースが違うこともある)し、常識のない行動も多かったので、結構拒絶されることが多かったような気がします。
その感覚がフラッシュバックして、「相手を否定すること」ができなくなっているのだと考えています。

ここまでの話をまとめると何かしらの主張をすることによって主張に反する人を拒絶しているように感じられ、そのちょっとした感情によって自分が拒絶された(と感じている)過去の感覚がフラッシュバックして苦しくなるという流れです。

この「主張していることで傷つけるかもしれない」という話も、「自分がなんとかしないと…聞いてあげないと…」という心も、どちらも根幹は同じです。
要するに

本当は誰も傷ついてほしくないんです。

正直言うなら、最初に挙げたパレスチナとイスラエルの戦争も「悪いことをした人が謝って、二度と悪いことをしない、みんな仲良くはできなくても、互いに互いを認め合える状態」になって終わってほしいんです。
どんなに悪いことをした人がいたとしても、悪口を言ってたとしても、騙そうとしていたとしても、「やったことが間違っていた、と認めて、お互いに仲直り」できれば一番いいんです。私としてはそれが最高のハッピーエンドです。

子供っぽいと思うでしょう。実際、子供の絵空事のように思います。
でも、私はそんな未来を求めています。

と、ここまで考えて、神様のことを考えた時「神様の御心は本来そのような未来なのではないか」と考えました。
御言葉でも「どんな悪人だとしても地獄に行くことは望まない」と話していました。

18:26義人がその義を離れて悪を行い、そのために死ぬならば、彼は自分の行った悪のために死ぬのである。 18:27しかし悪人がその行った悪を離れて、公道と正義とを行うならば、彼は自分の命を救うことができる。 18:28彼は省みて、その犯したすべてのとがを離れたのだから必ず生きる。死ぬことはない。

口語訳聖書 エゼキエル書18章26−28節

23:40もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。 23:41お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。 23:42そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。 23:43イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。

口語訳聖書 ルカによる福音書23章40−43節

そして、イエス様も強盗がイエス様のことを認めた時に一緒にパラダイスまで連れていきました。
今まで悪を行なっていた強盗ですら、イエス様のことを認めた時にパラダイスに行ったのです。
これはエゼキエル書の引用した聖句と合致します。

最初のパレスチナとイスラエルの戦争もそうですし、今行われているすべての争いの根底には「何かしら受けた心の傷」があり、傷から来る痛みがあるのです。
だから、すべての人の傷が癒えるように心から祈ります。そして、一番誰よりも傷を受けている神様とイエス様の傷が癒やされるようにお祈りをしたいです。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。