数学と歴史に隠された「物語」

おはようございます、satoです。今日は少し数学の話でも。

私は仕事やバイトで数学のことについて教えています。
教える時に一番苦労するのは何を教えたら良いのかが思い浮かばないということです。

というのも、定義や事実だけを話していくなら既に教科書というものがあるわけですが、どうしてそれを教えたら良いのか、そしてどうしたら子供たちがそれを理解できるのかということをしっかりとできないと、私の場合は教えられないわけです。それがないと単なる知識の伝達者であって、それならネットの情報と大した違いはないのです。
言うなれば、一つの授業に当たって、必ず何かしらの道筋、『物語』があるのです。

最近このことを神様にお祈りした時に浮かんだのが初めて学ぶ子供たちの視点に立ってみなさいというという考えでした。
それと共に、「何も知らずに改めて自分で考える」ことが出来るようになりました。そうすると、意外なところで躓いたり大きなギャップが見つかったりします。
そうして一つ一つ「今まで習ってきたところ」と「これから学ぶところ」が繋がってきます。

自分のこれまで学んだことを捨てて、改めて学び直す。
これって簡単なようで意外と難しいのです。

答えを出すなら、見た瞬間にすぐに出てしまいます。それは今まで訓練してきたからです。
だけど、「それがどうして思いつくのか」、その『物語』を考えてみると、案外抜けているところは多いのです。
そして、そこにこそ「新しい発見」と面白さがあるのです。

これは数学以外でも、仕事でも、あるいは御言葉でも同じかもしれません。
心を空けて、あなたの考えを降ろして私の考えを受けなさいという御言葉がありますが、なかなか難しいのは自分の認識がとても強いこと。
それでも祈ってみれば、そして改めて「どうしてそうなるのだろうか?」と考えてみると、そこには新しい発見があるかもしれません。

それにしても、やはり私は『物語』が好きなようです。
改めて振り返ると、私が一番強く感動を受ける時は「神様の心情を受けた時」なのですが、そこには神様の歴史、”His story”があるのです。
その物語に触れた瞬間、私は強烈な感動を受けます。
数学でも、数多の数式に隠された「一つの物語」に触れた時にはっきりと理解した、と感じるのです。

私の研究でも、一つの大きな「物語」を作りたいです。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。