デカルトvsパスカル、二人の「数学、人間と神様論」

こんばんは、satoです。
今日は数学者の中でも有名なルネ・デカルトブレーズ・パスカルについて話をしたいと思います。この二人は同年代に生まれ、哲学者として著名な人たちです。
そして、数学でも重要な概念を発表しています。さらに、二人は哲学的思考を持って、神様について考察しました。
この二人の理論とか実績を比較しながら、その二人の特徴を見ていきたいと思います。
数学者としてのデカルトとパスカル
まずは、数学者として。
デカルトの数学における功績は「座標幾何学」を開発したことです。これについては以前記事を書いたのでそちらも読んでみてください。
摂理人の連想:デカルトと「見えない性質」、そして言葉で表すことの大切さ。
デカルトがどうして「図形を2つの実数の組で表す」座標の考えを取り入れたか、というと…
不確実な図形をより確実な数字で考えるため
でした。後述しますが、彼は1つの自明な(明らかな)事実から考察をすることによって様々な現象を理論的に考える「演繹的な」思考をしていました。
これに対して、パスカルの数学における功績は
パスカルの定理パスカルの三角形確率論を構築したことです。
パスカルの定理は図形の性質、パスカルの三角形は二項定理にも出てくる面白い数字の組み合わせです。詳しくはwikiをご覧になってください。
これらはいずれも実験して得られた結果、実践的に得てきたもののように見えます。
ちなみに、パスカルは確率論を用いて様々なことを考察していったのですが、これについても後述します。
哲学者としてのデカルトとパスカル
次に、哲学の姿勢についてそれぞれの代表的な言葉を基に考察していきましょう。
デカルトといえば「我思う、故に我有り」。ラテン語では「コギト・エルゴ・スム」です。
これは、全てのことを演繹的に考察するデカルトが、最も自明な、疑いようのない確実なものは何かを考察した結果得られたものです。
デカルトは、完全に確実なものを見出すために「少しでも不確実なものは排除する」という手法を取りました。まず、痛みや五感は間違うことがあるから、確実ではない。
さらに、計算も後から間違っていることがわかる可能性があるから、これも確実ではない。同様の理由で科学的理論も排除できます。
さらには、真理の基となる神様も「実は真実なことを言わないで、嘘をつくかも?」ということで確実でない。
そうやって、全てのものを排除しますが…。
あれ?こうやって考えている自分という存在は確実にいないといけないんじゃないか?
と考えたデカルトは考えている自分という存在は確実に存在するという全ての論理の基点を見つけたのでした。
それに対して、パスカルの名言は「人間は考える葦である」。
聞いたことはあると思いますが、これってどういう意味か知っていますか?
彼は人間は葦のように弱い存在だと言います。
確かに葦というのは細く、すぐに折れてしまう。このように人間は宇宙の中ではほんの少しの蒸気でも死んでしまうような、弱い存在です。
しかし…たとえ、人間が宇宙に押しつぶされたとしても、人間は宇宙より優れた存在だと彼は主張します。
その理由は考えることができるから。
自分が死んでいくことも、宇宙が偉大であることも、自分は知っている。認識し、考えている。
だから、何も知らず考えることのできない宇宙より優れている、というわけです。
われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。と、彼は話します。
書いてて気づいたのですが、二人の思考形態は異なっているもののその結論はどちらも「考える」ことの大切さという風に言えます。デカルトの結論、私には人間は考えることによって存在しているとも見えますが、そうなるとこれはパスカルの結論とも近いものがあります。
デカルトとパスカルの神様論
さて、二人はこの結論を用いて様々なことを考えますが、その中には「神様」についての考えもあります。
デカルトはイエスズ会の学校出身であったことから、パスカルはいろいろな人との出会いから信仰に目覚め回心したことから、どちらも「信仰」を持っていたのです。
まず、デカルトは神様の存在証明をしました。先ほど「神様は人を騙すかもしれない」という風に考えたために、思考以外の実体が不確実なものになりました。それを解決するために、デカルトは「真実な神様は存在する」ということを証明したのです。
その流れは簡単に言うと「私たちの思想は有限なものだけど、それを知るには『無限』という観念が存在してないといけない。それは有限な存在である人間ではない。それが神様だ」という感じです。
あと、「完全な神様はその中に存在していることを含んでいる」というものもあります。
これらによって、完全な神様は間違いを犯さないということから嘘を付くことがなく、従って「神様は真実な方である」という結論が出ました。
そして、これによって自分の認識能力や物質の存在は確実なものとされました。ただし、感覚については不確実なままなので、物質の本質を感覚によって理解することができない、とされています。
先ほど「座標」を取り入れたのは「図形」という実体を視覚という感覚で理解することができないから、それに代わる「数字」と「計算」によって捉えよう、という考えからです。
これに対して、パスカルは次のように反論しました。
神様の存在は論理によって証明できるものではない。と。
これは、人間の思考を含む精神活動より、愛の方が大きく、愛には愛の秩序があるからです。彼は愛は超自然的なものだと話しています。
また、神様について考察した有名なものとしてパスカルの賭けがあります。これは確率論の期待値を使って、すなわち信じるか、信じないかによって得られる利益と損失を計算して信仰をすべきだ、という結論を述べました。
簡単に言うともし神様がいたとしたら、信じるなら天国に行けるし、信じなかったら地獄に行ってしまう。一方、神様がいなかったら信じても信じなくてもなんにもない。いずれにしても、神様を信じたほうが利益が大きいという理論です。
二人の思考の違い、そこから見える神様
デカルトは数学が得意で、論理的思考を好みました。それゆえ、演繹的な主張が多いです。
一方、パスカルは実験物理学者でもあるためか、帰納的・実存的な主張が多いです。
二人とも思考体系は異なりますが、その結論が似ている、というのは面白いところだなと思います。
デカルトの主張を私なりに解釈すると、神様が存在するから、人間の論理的思考が保証されるということかなと思います。
また、パスカルは神様の存在は人間の思考で判断できるものではないということです。
これらは、どちらも正しいことを言っていると私は思います。
出エジプト記3章14節
神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。
鄭明析先生は神様について、神様は自体で存在される方だと話していました。
自らの力で行い、自発的に全てのことをなさる。そこには何の条件も必要ない。それゆえ神様は完全である。
そう話されました。そう思うとデカルトの「完全な方は存在すること自体を含んでいる」という証明も間違いではないと思います。ただし、論理的には循環論法になっている気もしないではないですが。
それに比べると、人間の肉体は確かに完全ではありません。人間の肉体はエネルギーがないと何もできませんからね。
でも、人間には「完全になれる可能性」があります。それは霊魂の存在です。
そして、それを成すために、神様は人間に考える力をお与えになりました。
鄭明析先生はまた「人間は考えがあってこそ存在できる。人間から考えがなくなったらそれは死体と同じだ」ともおっしゃいました。先ほどの二人の結論ともつながる言葉です。
個人的には、学校も行けず、デカルトもパスカルも知らなかったであろう鄭明析先生が二人に通ずる結論を出せることが驚きです。やはり、信仰を持ち、神様から学んだからこそなのでしょうか?
今日この記事を書こうと思った理由はデカルトとパスカルという二人の主張を比較することによって、信仰と数学の関連性を理解しようと思ったからです。しかし、二人の主張が御言葉にも出ているのを見て…私はやっぱり神様はすごいな、と思いました。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。