流行語大賞から感じた「言葉の力」その6

こんばんは、satoです。

前回は「トランプ現象」が起きた背景にある「不満・不安」について書きました。
今でも自分を点検していますが、まだまだ多くの直さなければならないところがあると感じております…(-_-;)
しかし、自分が直さなければならないことを直したとしても、社会状況が変わるとは限りません。
むしろ、「子供が保育園に入れない」とか「職を失った」という状況は自分にはどうしようもないことのように感じます。「言葉の力」の結論として、このことについて私が感じることを書いてみたいと思います。

社会に訴えるために

ある人が「社会に訴えかけるためには、扇情的な言葉が効果的である」と話しているのを聞いたことがあります。
確かに、社会現象にまでなったデモや様々な行動にはかなりといっていいほどの「扇情的な言葉」を使っています。
そうでないと、社会は振り向きもしない、と考える人もいます。
実際、『保育園落ちた○○』もその言葉が刺激的であったから、あそこにまでなったというところもあるでしょう。
単に『保育園落ちた…』だけだったら単なる一主婦の落胆の言葉だけで終わっていたのかもしれません。
それで、特にネットでは「扇情的な言葉」が良く出ています。

世界を見ても、歴史を見ても、デモ行為によって社会がひっくり返ったということは本当に多いです。
それによって、今の社会が成り立っている、という見方もできます。

争いが生むもの

しかし、そのような言葉で生まれたものには必ず「争い」が伴います。
事実、デモ行為で社会がひっくり返った時には必ずと言っていいほど「闘争」が起きています。
闘争が起きれば、互いに傷を受けます。そして、その傷によって多くの歪みが将来にまで残ります。
たとえば、第二次世界大戦の爪痕が今の国際情勢に強くかかわっていますよね。
今日ちょうど日本とロシアの首相会談が日本でありますが、その議題の中心となっている『北方領土』の問題も第二次世界大戦によって起きたものです。未だにどちらの領土なのか、お互いにぶつかり、解決していません。
このような爪痕が今もなお世界には多くあるのです。

扇情的な言葉によって、確かに社会は動きます。
しかし、それによって動いた結果には少なからず「瑕」が残り、将来に不安が残るのです。

社会に訴えるか、それとも…

聖書を読んでみると、「弱い者、小さい者の小さな訴えを聞かれる」神様がいらっしゃることが分かります。

彼は民の貧しい者の訴えを弁護し、乏しい者に救を与え、しえたげる者を打ち砕くように。-詩篇70篇4節

わたしは主が苦しむ者の訴えをたすけ、貧しい者のために正しいさばきを行われることを知っています。-詩篇140篇12節

全てのことは社会や群衆が動いて変化するように感じますが、根本的には「神様が働かれて」こそ解決します。
そして、神様は立場の弱い者、義のために苦しむ人の苦しみ、訴える声を確実に聞かれます。

社会を動かすのは人ではありません。
社会を動かせるのは、ただひたすら全能なる神様だけです。

その神様は、愛の神様です。
どのように話しても、神様は「御心ならば」その祈りを聞かれます。
そんな神様に対して…果たして、どのような言葉で話すのが相応しいでしょうか?
自分が話している「荒い言葉」で話すとき、心の中が痛みませんか?

もう少し後で、その問題が解決されたとき、きっとその人が放った言葉は「きっかけ」として歴史に残ることでしょう。
そのとき、歴史に残った言葉が「荒い言葉」なら…あなたはどう思いますか?

言葉の力はとても強力です。ペンは剣より強いという言葉もあります。
それは人をも動かすし、何よりも自分の運命を左右します。
今年の流行語大賞も、社会に大きな影響を与えたものです。
それゆえに、言葉の使い方をもっと大切にしていきたいと、私は感じるのです。言葉を扱うものとして。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。