とある明け方の祈りで…。

明け方。

誰もいないそこで、私は祈りました。
「神様、こんなに長く待たせてしまってごめんなさい。
とても寒かったですよね。こんなに手が冷えて…」

その祈りに、神様の声が心に伝わってきました。

「…違う。
私は、いつもそうなのだ…」

違う、それは私の言葉に対してそうおっしゃっている、というより、私の心を見て、おっしゃっていました。

いつもなら誰かいるのに、今日は誰も居ない。
そのことで神様を寂しくさせてしまって…

そう、私は思っていました。

しかし、神様にとっては、誰かが居たとしても、そこでお祈りをしていたとしても、「私が来るのを、寒さにこらえて」待っているのです。
そう、神様は私だけを見て、待っていたのです。

「神様はあなたを愛している」

これはキリスト教でも、摂理でも伝えられる御言葉です。
しかし、この話を聞く人の大半は神様の愛を「人間全体に対する愛」とだけ認識します。だから、他の人がしてくれるなら、自分が居なくても大丈夫…と認識してしまいます。
私もそう認識していました。だから、「誰も居ないから神様が寂しい」…言い換えると「誰かが祈っているなら、私が居なくても神様は寂しくないだろう」…という考えが出てくるのです。

ところが、神様は「誰かが祈っていたとしても、あなたが居なければ寂しいのだ」と心に話されました。
そう、神様は私だけを愛していると話しているのです。

私たちは「親子の愛」は感じられても、「恋人の愛」というのはなかなか感じられないものです。
「すべてを捨ててまで愛してくれる」愛は…。だから、そういう愛を求めて人々は探しまわるのです。

「私はあなたを愛している」

神様がこうおっしゃる時、それは「あなたしか居ないんだ、あなた一人を愛している」という「恋人の愛」を伝えているのです。
(それなら、全人類を愛している、というのに矛盾している…ように思いますが、実際には「私を愛しているように、隣の人も愛している」のです。全ての人、一人一人を「恋人」と思って愛する…人間には到底出来ないし、してはいけないですが。
神様は「全能者」なので不可能でないし、それくらいしても良いんじゃないでしょうか)

神様には、私しかいない。私一人を本当に愛している。

そう気づいた、明け方の時間でした。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。