摂理の御言葉と言葉の意味〜人と神様の考えは異なる〜

おはようございます、satoです。

摂理では、鄭明析先生が書いてくださった御言葉が伝えてられています。
その鄭明析先生がよくおっしゃるのが「自分の考えと神様の考えは異なる。だから、あなたの考えを捨てなさい」という御言葉です。
ここでいう考えとは「認識」とか「ものの見方」とか、実にさまざまなことが含まれています。

人間がある状況を見て、どう考えてもできない…と認識しているとしましょう。そのとき、神様は同じ状況を見て、どう考えてもできる…と認識していることもあるのです。それは、神様が「全知全能」であり、「未来まで見て」考えることができるからです。一方人間は「現在と過去」までしか見れず、「部分的にしか知らない」ので、見方が狭まるのは仕方ないことです。

だから、神様の御言葉を聞くときには「自分の考えを捨てる」ことが大事なのです。
これは、「御言葉で出てくる単語の意味」にも当てはまります。
つまり世の中で使われている言葉の意味と神様が使う言葉の意味が異なるということがあるのです。

たとえば、「完全になりなさい」という言葉を聞いて、あなたはどのような意味だと考えますか?
私は「欠点をなくしなさい、すべてのことができるようになりなさい、完璧にしなさい」と考えてました。
これって…本当に可能でしょうか?
しかし、神様は「完全になりなさい」とおっしゃります。だから負担に感じるのです。

神様の視点でこの御言葉を見てみると、実は「私との愛において、傷のないものとなることを目指しなさい」という意味で伝えられています。
「今すぐしろ、というのではなく、そこを目指しなさい」ということと「世の中ができることすべて、ではなく神様との愛に関わることを完璧にしなさい」という点で異なりますよね。
こういう誤解をなくすと、御言葉がもっと素直に入るし、もっと深い意味がわかります。

実際のところ、神様に対して多くの誤解をしている人が多いです。
例えば「裁き」とか…あれも多くの人が思い浮かべているものとは少しニュアンスが異なります。
そういう誤解を解いてくれるのが鄭明析先生の御言葉なんです。
なので、自分の持っている認識、イメージを捨てて、一から学ぶと思って聞いてみてください。

…と言っても。
この「自分の持っているイメージを捨てる」ってのが大変なんですけどね。
いくら正しい定義を聞いても、どうしても「自分が持っているイメージ」が先に浮かんでこんがらがることはよくあります。
では、どうすればいいかというと…繰り返し定義を考えることです。何回も書いて、考えて、書いて…を繰り返しているうちにあるとき「定義がすんなり入る」ということがあります。これは世の中の学問の勉強でも同じです。
だから、やはり「繰り返す」ことが大事なんだと思います。

私も御言葉を聞きながら、摂理に長くいる間に誤解していた単語の意味を正しく認識するという体験をしました。それによって深く悔い改めをするようになりました。どんなに摂理に長くいて、御言葉を聞いていたとしても…誤解、誤認識はあるというものです。
だから、ひたすら繰り返し考える必要があるのです。自分が正しく御言葉を、先生を、摂理を、神様を、自分自身を認識しているか、を。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。