持続的な愛をするための研究。

おはようございます、satoです。

摂理の御言葉で「生活の愛」がよく伝えられます。
これは「生活の中で絶えず神様を考える」ことです。といっても、これがなかなか難しい…。
仕事をしているとそのことに夢中になるし、自分の好きなことをやっていると忘れてしまうし…結構もがきます。

以前、バイトで机を拭いているときに、途中でご飯を食べ終わった人が立ち上がりました。
それを見ながら、「あぁ、本当に大変だ…」という考えが、いつもなら出ていました。
しかし、その日はちょっと考えの視点を変えて神様のことを考えてみました。
そうすると、「こうやって使った人の代わりに私が机を拭いているけど、このように自分が生きてきて汚れたところを主が代わりに悔い改めて綺麗にしているのだな…」と考えるようになりました。
そして、「本当にありがたいのは、机を汚さずに食べている人だ。このように、汚れても自分で綺麗にする人が神様にとっても一番ありがたい人だ」ということに気づきました。
また、机も多くの人が使ってこうやって汚れているけど、これと同じように地球も多くの人が使って罪が溜まるんだな…それを綺麗にする方が必要なんだな…と考えるようになりました。

このように、「瞬間」神様のことを考えるのはそれなりに出来ます。
しかし、それでも「持続的に、途切れることなく」行なうのは簡単ではありません。自分も瞬間考えが別の方に流れてしまうことの方が多いです。

生活を振り返ってみると、もう少し活動する時間を増やしたいと思っています。
いつも眠たくてしばしば寝てしまったり、頭がぼーっとしている時間が多いし、それ以外でもこれといった「すること」がないという時間が多いです。
「することがない」時間というのは本来無いわけで、私も数学研究や論文書いたり、仕事の準備をしたりと色々「すべきこと」はあります。御言葉を読み返すこと、祈ることもその一つ。

ですが、「この時間は必ずこれをする」ということがないのです。決まった時間の祈りとバイトなどの「時間が決められている」もの以外で、自分の決めたことがないのです。
そうすると、何をやっても「やってもやらなくてもいい」という状態に陥ってしまいます。
それなら、「この時間には必ずこれを終わらせる!」という決心を持ったほうが良いのでしょうか?

何かを行えば、それを通して「神様のことを考える」ことが出来ますが、何もしていないと何もできません。
この時間が多いことが問題のような気がします。

こうやって、御言葉を実践するために、仰った御言葉を成就するために研究することは神様も願われることです。
うまく行かなくても、絶えず研究すれば出来るようになります。だから、「出来ない」と諦めることなく最後までやってみようとする姿勢が大事なのですね。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。