おはようございます、satoです。
最近摂理の御言葉で出てくるものの一つに「古いものを葬りなさい」があります。
まるで死んだ人を葬るように、自分が持っている古いものを葬って新しくすることを神様は願っていらっしゃいます。
だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。
-コリント人への第二の手紙5章17節
ところで、古いものを葬る、というのはどのようにすればいいでしょうか?
私はずっと「古いもの」をなくそう、なくしてください、とお祈りをしていましたが、一向に上手くいきませんでした。
私の経験
昨日私は「幼少期から抱えていた寂しさ」をようやく出すことができました、ということを書きました。
私は自分自身が非常に敏感なためにより多くの「構ってほしい」気持ちがありました。
しかし、私には非常に弟が多かったために親に構ってもらえる機会が少なかった、のだと思われます。
その寂しさをずっと溜め込んでいて、小学生になるまでは常に怒りの感情を持っていて色々動いていました。
それが、昨日ようやく表に出せました。
ところで、私はずっと残っていた「心の澱」を出そうと必死になっていました。
原因は「幼少期の寂しさにある」とずっと分かっていましたが、それでもなかなかクリアできませんでした。
ところが、昨日この寂しさを「寂しかった」と天に告げることによってようやく
「寂しかった思いを葬ることができます」
と告白できました。
ずっと幼少期構ってもらえなかったことが無念でしたが、ようやくそのことへの執着を離すことができました。
ここで、一つ悟ったのが
古いものを葬る、というのは「なくす」のではなく「しっかりと悲しんで」こそできる
ということでした。
グリーフケア
先程の御言葉でも「死人を葬るように」と比喩で表現されましたが、実際に葬るにはどのような段階を経ているのでしょうか?
このことについて、最近象徴的な出来事がありました。
市川海老蔵、ブログ“更新しすぎ”批判の声に「許してください」@シネマトゥデイ
2014年に乳がんが発覚した小林麻央さん。
その闘病生活をブログで発信し、同様の境遇にいる人の助けになろうとしていました、と私は記憶しています。
その小林麻央さんが6月に亡くなりました。
その際に、夫である市川海老蔵さんがブログで生前の一コマをしばらく更新していました。これについて
私は今こころの頼りはこうしてブログでも皆様も繋がっている事も私の支えになっています。ありがとうございます。更新しすぎという意見もあるとか、確かにその通りです。が、ごめんなさい御理解してくださいとは言いません。-「朝の一服とお許しを」@市川海老蔵ブログ
とコメントされていました。この行為に対して
SNS時代の喪のひとつの形 〜ブログやツイートによるグリーフケアの意義〜 海老蔵さんのブログに寄せて
にもあるように、「一つのグリーフケア」、つまり「喪失に伴う悲しみを整理する」ものだという話があります。
人は何かを喪失したとき、必ず何かしらの「反応」を示します。それが大事なもの、好きだったものであればあるほど、大きく。
その最たるものが「悲しみ」です。
大事な人が亡くなった時に、悲しみの反応が出ることはとても自然なことです。
このことについて、発達障害当事者のライターである宇樹義子さんのブログで細かく書かれています。
【悲しみについての覚書】悲しみとは祈りである@decinormal
この記事はぜひ全文読んでもらいたいのですが、ここでは一部のみ抜粋させていただきます。
ロスによれば、人は大きな喪失を経験したとき、5段階のプロセスを経て喪失を受容していく。
- 否認(こんなことが現実のはずない)
- 怒り(なんで私がこんな目に!)
- 取引(こうしたらこの事態を避けられるよね神様?)
- 抑うつ(悲しい、絶望だ、私は無力だ。なにもやる気が起きない)
- 受容(そうだ、私は○○を失ったんだ。静かで穏やかな気持ちだ)
喪失をうまく受け入れられていない段階が3まで。喪失に対するさまざまな抵抗を諦めて4の悲しむ段階を経ることで初めて、喪失を受容する5の段階に至ることができる。
これは精神科医のエリザベス・キューブラ―・ロスが提唱した「死の受容の五段階のプロセス」です。
私が注目しているのは、これは「人の死」だけでなく、「古いものを葬る」という過程においても成り立つのではないかということです。
古いものを葬る過程
どの時代においても、「古いもの」というのは「死んだもの」でもあります。古いものはどんなに愛着が湧いたとしても、残念ながら時代に合わない「死んだもの」です。
だから、まずは「それが死んでいるものだと認識する」必要があります。これには「新しいもの」を知る必要があります。
それができたとして、それでは「すぐに新しいものを受け入れられる」でしょうか?
自分が嫌だったり、なんでもないものだったらともかく、自分が好きだったもの、心の支えになっていたものはすぐに捨てることは難しいでしょう…。
私の「幼少期の寂しさ」のように、それが好きだったのではなく、トラウマに近いようなものだとしても、捨てるのは難しいです。
その過程の中で「これを捨てるなんてことはない(否認)」、「どうしてこれが死んだものなんだ!(怒り)」、「他のこと頑張るから、これはこのままで(取引)」という心の防衛本能が働きます。あるいは、ここには書かれていませんが「解離」というのもあると思います。
私の「幼少期の喪失」の場合は「他のものに没頭する」「空想世界に入る」という「解離」による防衛が強かったのだと推測します。
時が経てば経つほど、捨てるのは難しくなりますが、根気強く向き合い、一つ一つ受け止め、「反応」するその過程…「悲しみ」、「感情の表現」を思い切りすることが、「葬る」という一つのポイントなのではないかと私の経験から思いました。
もし、それをすることなく、悲しみを抑圧したら…その感情はずっと残って私の心を苦しめます。
一つ一つ向き合い、悲しみを表現し、受け止めて、「葬る」という段階になるのです。
自分の大切にしていたものを捨てるのは、とても勇気がいることです。
喪失したと認めることは、とても苦しみが伴うものです。
それでも、その苦しみを受容し、神様に告げた時に、それを乗り越えることができます。
そして、その越えた先には…「新しい」世界が開かれているのです。
それが、全ての「失ったもの」の願いでもあるのではないかと、私は思います。
約束 お願いはひとつだけ
生きて 生きて
どんな時にも なげてはだめよ
それは なによりチャーミングなこと-岡崎律子「I’m always close to you」
最後に、今更ながらですが…小林麻央さんのご冥福をお祈りします。
この記事を書いたブロガー
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「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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