こんばんは、satoです。
タイトル通り、最近私は「悔い改め」にハマっております。
それは、私の中で悔い改めに関する認識が変わったからなのですが、今日はそのことについてまとめてみたいと思います。
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悔い改めとは
その前に、まずは悔い改めとは何か説明します。
悔い改めというのは、「過去の行ないを反省して、心を入れ替える」という風に辞書に書いてあります。
私たちが生きる中で神様の考えと違う行いをすると神様の心を痛めてしまいます。これは、愛する人が自分が願うように愛してくれないと心が痛くなることと同じです。これを「罪」と呼びます。
その罪は、しかし私たち人間の考えでは改めるどころか気づくことすらできないこともあります。
もちろん、人間が神様の考え、想いと異なることをするときに気づく方法を神様は用意しています。
彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである-ローマ人への手紙2章15節
それが、良心です。
何か悪いことをしようとしたとき、また相手を傷つけるようなことをしたとき、自分が悪いと知らなくても「心が痛む」のは、この良心のためです。
言い換えると「良心に反すること」というのが「罪」となるのです。
しかし、それでも「神様の想い」を認識していないと良心に気づかないこと、あるいはあまりにそれに慣れすぎて良心を感じられないことがあります。
だから、神様は人を通して「御言葉」を伝え、私たちに神様の想いを教えてくださいます。それを聞きながら、心が痛むことがあるとき…その時に「悔い改め」をするのです。
つまり、「今までは知らなくてそうしてしまったけど、神様の心を痛めさせてしまってごめんなさい。次からはそのようにしません」と心を入れ替え、そして実際に行いを変えていくのが悔い改めです。
悔い改めが苦手でした。
ところで、悔い改めをする際に一番難しいことは何でしょう?
色々ありますが、私が最も苦手だったのは「自分が悪かったことを認める」ということでした。
というのも、私は「自分のせいでこうなった」という事実を過剰に受け止め、恐怖を感じるほどに落ち込んだり、心が折れてしまうことが多かったのです。
発達障害の傾向にある人の多くが「失敗や負の感情に敏感で、良かった感情を吹き飛ばすほど」という傾向にありますが、その一つだと思われます。
だから、良心が痛くて悔い改めをしようとするのですが、「心を入れ替える」というより「ただひたすら謝る」ということばかりしていました。
それは失敗した事実に対して向き合えず、何とか消そうとしていたからなのだと思われます。
私の中で、「失敗したら、もうそれで終わり」という感覚がありました。
どうやっても失敗した事実は取り戻せず、それで終わってしまう…。
そのような感情に囚われて、思うように悔い改めができませんでした。
鄭明析先生の御言葉
そんな中、つい最近鄭明析先生の御言葉の中でこんな話を聞きました。
「年末には悔い改めをしなければなりません。
自分の力が足りなくてできませんでした、と悔い改め、それから神様に『だから来年はもっと力をください』とお祈りすればいいです」
正確な文章でなく私の記憶によるところが大きいですが…。
私の認識が変わったのは、「自分が罪を犯した原因を認めて、それを超えられるように神様にお祈りして求めていい」ということでした。
それまでは、「自分はこうだからできなかった…」ということを認識していて、それが自分の足りなさ、不義である場合はともかくとしてやむを得ない事情…たとえば「そもそも知らなかった」とか「天気が悪くてうまく動けなかった」とか、そういう自分にはどうしようもできないレベルのことだと「それも自分が悪いのかな…」と納得ができなかったところがありました。
また、それを言い訳にして合理化することもありました。
ところが、この話を聞いてから、「あ、自分が悪かった原因を認めたら、神様にそれを超えられるように願い求められるんだ」と認識が変わりました。
それからは、むしろ率先して悔い改めをするようになりました。
悔い改めの結果
たとえば、昨日はバイトをする中で「言葉遣いが荒くなってしまった」ことがありました。子供と接するのがメインのバイトなのでこれで心を傷つけてしまったら…と思うと非常に恐ろしくなりました。
それで、バイト後「今日は言葉遣いが悪かったです。子供に教える立場なのにこのようにしていたことを悔い改めます。
明日はもっと言葉を選んで使いますので、どうか助けてください」と悔い改めの祈りをささげました。
そうしたところ、今日は人を通して「どこまで子供たちができたのか」を見る心を教えてくださり、そうしていく中で言葉遣いも良くなっていました。
(最も、語尾が安定しないなどの「面白い」レベルのおかしさはあるのですが…)
また、昨日はブログを書くのに時間がかかりすぎたのと始めるのが遅くなり、結果として教の明け方の礼拝に遅れてしまいました。
私の場合は、自分が遅れるだけで全体が遅れるような立場にいる(し、今日は実際そうなってしまった…)ため、非常に心が痛かったです。
それで、「ブログを書くのが遅すぎたせいでこうなってしまい申し訳ありません。
『うまく時間を切って時間を守るのが知恵だ』とおっしゃったのですが、そうできませんでした。
今日はこうならないように知恵と行う力をくださることを願います!」
とお祈りしました。そうした結果、今日は早くも構想が浮かんでこの記事を書いています(笑)
このように、悔い改めをしっかりすると自然と神様と向き合う時間も増えました。さらに、自分が今日はよくできたと思ってもむしろ「どこか悔い改めるところはないか…」と考え、悔い改めを率先して行うようになっていました。
はっきり言って、奇跡です(笑)
今年一年、できなかったことはたくさんあります。
今年一年を振り返りながら、大掃除をするように悔い改めもたくさんして、神様からもっと力をもらって変化していく来年になるように頑張ります!( *´艸`)
この記事を書いたブロガー
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「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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