「切らなきゃ」では切れない…そんな時には

おはようございます、satoです。

摂理では「これはしてはいけない」という御言葉がよく出ます。その中にはかつて自分がハマっていたものも出てきます。

真面目な人ほど、こういう御言葉を聞いて「切らなきゃいけない」と思って、それをやめようとします。ところが、自分の過去好きだったものを切るのは簡単なことではありません。
そうして、「どうして自分は切らないといけないと言われているものも切れないのか…」って落ち込んだりします。日本人にはとても多い傾向です。

しかし、私は「切らなきゃいけない」という考えだけで切ることはなかなかできません。
これは私の経験からもそう感じます。
何故かというと「切らなきゃいけない」という考えは義務感によって出るものです。
しかし、自分がハマっていたものに対しては何かしらの「思い」とか「快感」とか「良さ」を感じているはずなのです。だから、それを「義務感」のみで切るのは難しいです。せいぜい「我慢する」ことで精一杯でしょうが、それも心に大きく負担をかけることになります。

ダイエットとかもそうですが、「我慢することで良くなる」ことは理解できていても目の前の「快感」の方が強く感じられます。それは肉体があるからなのですが。
問題は「快感」を越えるだけの理由を自分が持てているか、です。
その理由を自分がしっかり感じて、辛いことがあってもそれを越える喜びを常に意識してて…そうできればできるほど、成功しやすいです。

結局「切らなきゃいけない」という義務でなく、「切らなきゃ!」という感動を受けることが大事かなと思います。切らなきゃ!ってなれば結構スムーズに行きます。
なので、御言葉で「してはいけない」と言われたことがあったら、まずそれをしないのと同時に神様に「どうして切らなければならないのか」尋ねてみつつ自分のそれに対する気持ちを鑑みるといいかもしれません。

もう一つ、切らなきゃと考えたり、これが切れないと悪い…と考えるよりは「現段階でできていること」を考えたり「楽しいこと」を考える方が効果的です。
前者は「切れない自分」を責めて精神的に悪い状態になると、その状況から逃避したくなり、却って「切らないといけないこと」に走ってしまうためです。
この状態の時には「できないところ」を注視しがちですが、実際のところ「できていること」も多くあります。そして、神様は「できていないところはできていない」と見ると同時に「できているところはできている」ときっちり認めてくださる方でもあります。むしろ、できている方もちゃんと見てくださる方です。
なので、自分も「自分のできていること」をよく見てあげるのが大事です。…実は私が心療内科に行くたびにいつも言われていることでもあります_:(´ཀ`」 ∠):

そして、後者については「切らなきゃいけないこと」以上に楽しいことがあれば自然と離れるようになるからです。
この場合、罪にならないこと(範囲)であればなんでもいいと思います。音楽とか、運動とか。
運動のような健康的なもの、聖書や賛美といった信仰的なものであればベストですが、そうでなかったとしても「自分が心から楽しめるもの」であればいいのかなと私は思います。

長くハマっていたものほど、切るにも時間がかかります。なので、長い目で見ましょう。
私も摂理で避けるよう言われていても、なかなか切れないものがあります。お互い頑張っていきましょう…(-_-)

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。