失敗する度、心が苦しむ理由。

おはようございます、satoです。

私がずっと苦しんでいたことの一つに「怒られること、指摘されることが本当に苦痛」であるということがあります。
これ、仕事をする上でとても障壁になるのです。というのも、ノーミスで仕事をし続けられるならば何も問題はありませんが、実際人は誰でもミスをします。
特に経験の少ないことならより多いです。そして、そのミスが「許されない」ミスであればあるほど、ミスをした時に厳しく指摘されます。
それで、何故か私はそのたびに心が傷を受けるのです。それが辛くて、時にはミスしたことがわかった瞬間に心が固まってしまったり、ミスを隠そうとしてしまうこともありました。

最初は自分が疎外感を感じているから、とか、自分のプライドが高いから、とか、そのようなことを考えていました。
しかし、よくよく考えてみると疎外感やプライドという問題以前に「してはいけないことをした」と認識した瞬間の雰囲気、怒られるときの「許されない」感覚に過剰に反応していたということに気づきました。
しかし、それだと「怒られる瞬間」に対する対応ができない、ということで本当にどうしたら良いのか分からなくなっていました。
その答えが、今日のバイトでの対話から来ました。

子供たち、特に小学生の子たちにも色々な子がいます。
真面目に授業に取り組む子もいれば、そうでない子もいます。
そして、時にはそれで先生に叱られることもあります。実は私も一度その現場を見たことがあります。
そうすると、叱られた子供が泣くことがあります。叱っている先生は感情的に叱っている訳でなく、してはいけないことについて諭すように話しているのにも関わらず、です。
そのことについて、その先生が言うには「してはいけないことをした、ということに気づいて泣いている」と話していました。
そして、それだけ純粋な心で話を受け止めているんだって。

その時、ようやく私の心も理解できました。
私がミスを犯したとき、叱られるときに苦しくなり、泣きそうになるのは、トラウマや怖いから、でなく「してはいけないことをした」と感知して泣いていたのだということだったのです。

今まで軟弱でどうしようもない、と思っていた私の心。
だけど、本当はとても真っ直ぐで、良い心を持っていたんですね。
そんな私を、私は強くない、揺れ動く、といじめていたんだ、と気付かされました。

今まで多くの人に純粋だ、真面目だ、と言われてきました。
でも、私にしてみれば自分は色々不純なことを考えているし、人の言うことを聞かないときもある、悪い子だと思っていました。
その認識を、一つ解いてくれました。

もっと、自分の心の感性を信じてみよう。
神様が作ってくださった私の「純粋な心」を大切にしてみよう。
時には神様の御言葉と違うことがあるけれど、人を、神様を大切にする私の心をもう少し信じてみよう。

世の中で生きれば、いつしか失ってしまう「純粋な心」。今は中学生でもこのような心を持っている人は少なくなっています。
そして、「純粋な心」を持っている人にとって生きにくい今の社会です。
私もおそらくこの心で知らぬ間に傷を受けていたのでしょう…。

心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。-マタイによる福音書5章8節

そのような私を、神様は見つけて摂理に呼んでくださました。
そうして、前より私の心は強くなりました。

前より泣き虫になったような気もするけど。
前よりも笑えるようになった気もします。

前よりも苦しくなることも増えたけど。
前よりも「してはいけないこと」をしないようにもなりました。

純粋な私の心を通して、神様が成したいことを、成して差し上げる人生にしていきたいです。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。