「何度でも行いなさい」の力

おはようございます、satoです。
ブログ更新も続けて今日で2週間になります。続けてやっていくと、ネタが切れるようで意外と切れなかったりします。
例えば聖霊の感動に従って一番くじを引いたらフィギュアを当てる、とかびっくりするような出来事が起きたり。
しかも、その記事を書いたら「神様がくださったものを考え、記録しなさい」とジャストミートな御言葉が出たり。
そのように、続けて神様がブログを書けるように助けてくださっています。

ところで、その時の御言葉の中で次のような内容の話がありました。

今は各自最高の信仰の作品をつくって行なうべき時です。一度でできなければ、またやり、またやって、繰り返してできる時までやればいいとおっしゃいました。

2023年10月1日主日礼拝の御言葉より抜粋

一度でやりなさい、という御言葉が出ることもありますが、今週は最高の作品を作る時だから、一度で出来なかったとしても、またやって、何度でもできる時までやりなさいという話でした。
個人的にはこれはとてもありがたい御言葉でして。
私はどちらかといえば一気に終わらせたくなるタイプなのですが、失敗もとても多く心が折れがちでした。しかし、信仰においては「失敗すること」より「諦めること」の方がもっとダメなことなんだ、何度失敗しても最後までやってみることが大事なのだ、と失敗をして相談して、を繰り返していくうちに感じるようになりました。
だから、「何度でもやろう」という感覚に、今はなっています。

信仰における「何度でも」の力

信仰においては、例えば聖書通読や祈りも「何度でも」やることによって段々と良くなっているのを感じます。
最初は「よくわからない」まま…ただ物語として読んでいた聖書ですが、ここ最近一気に読んでから通読する中で段々と旧約聖書と新約聖書の違い、預言の意味、それが段々と理解できるようになってきてきました。
実際に信仰生活をしてみて「解像度」が上がっているのを感じます。

祈りも初めはぼーっとしていて、時間が過ぎるのを耐えるだけだったところもありました。
祈り、ということでとりあえずしゃべるだけで、とにかく祈りの時間が過ぎるのを待っていたこともありました。
しかし、最近は朝起きたら祈りをしたくなるし、朝仕事なのに寝坊してしまって、時間がない時も瞬間集中して祈れるようになりました。内容も自分の根本的な問題とか悟りとか、そういったものが口から出るようになりました。

もし一発でやりなさい、と言われたら絶対祈りは深く出来なかったでしょう…。

そのほか、自分の生活も段々と改善されています。
最初はそれこそ壊滅的なものでしたし、何回も壊滅的な状態に陥ることがありましたが、それで見捨てられず繰り返し生活を改善できるように助けてもらったことで、なんとか今に至っています。正直改善点はあまりに多いですが…。

研究における「何度でも」の力

また、最近研究も頑張ってやっています。今はある数学の問題に挑戦しているのですが、これも最初からこの問題に気づけたわけでなく。
何回も論文を読んで、考えをまとめて、具体例を計算していくうちに問題が思い浮かびまして。
証明をしようして失敗し、もう一回iPadで計算してみて。
証明を考えるうちにより良い方向性がわかって証明できるようになり…
また気になる問題があったら具体例で計算して検証して…
と「繰り返し」行うことによって「解像度」が上がっているのがわかります。

書く方でも最初は無茶苦茶な文章なのですが(研究内容をわかりやすく書くのが苦手)、何度も繰り返し修正するうちに段々とわかりやすく、読みやすい文章に変わりつつあります。私は最初「一発で書けないとダメだ」となりがちだったのですが、やはり校正は大事ですね…。

特に新しいことに挑戦するときは必ず失敗がつきものです。そもそもどうやったら上手くいくのかわからない状態ですし。
そんな中で「何度でもやりなさい」という御言葉は本当に力になります。もし「失敗するな」だったら、本当に苦しかったと思います。

そもそも、聖書に書いてあるこれまでの歴史も人間側の失敗の連続でした。
人間がうまく出来なかったことで歴史が良くない方向に進むことが多かったです。しかし、神様が都度人間を許し、再び人を集め歴史を広げたから、今も人が生きているのです。
そう考えると、神様の心がどれほど広いのか、感嘆せざるを得ません。

今はうまくいかないこともあるのですが、最後まで諦めず…神様の御心を探して、頑張ってみたいと思います。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。