こんばんは、satoです。
発達障害についてネットで色々調べると
「これって普通じゃない?誰でもこういうことはあるのでは?」
ということを一度は感じたことがあると思います。
たとえば、ADHDの傾向にある人は
・落ち着きがない
・やる気が出ない
・忘れ物が多い
などといったことがあります。でも、特に上二つは誰しもが一度は経験したことがあるものです。
テスト前になると「勉強する気が起きない~」っていう学生はたくさんいます(笑)もちろん、すべての人が発達障害を持っているわけではありません。
それゆえに、発達障害で困っている人に対して「それは気持ち次第だ」とか「自分の力で何とかなる」と話す人は割といます。また、当事者も「これって自分の気持ちでどうにかなるのでは…」と考えて無理をしたり、問題にしなかったり、時には自分を責めることもあります。
おそらくそれは「普通の人が持っている感覚で、『やる気が出ない』ということがあって、それは自分の気持ちの問題だった」という認識があるからなのだと思います。
今日は、この「普通の人」も感じるそれと発達障害の人のそれとの違いについて書いてみたいと思います。
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人間が持つ感覚について
今日摂理で伝えられた御言葉でこんな話がありました。
神様は人間が「とても鋭利な反応」を見せるように創造なさいました。
そうすることで人間自ら<良いこと>と<悪いこと>を分かって分別して行ない、小さいことでも<行なうべきこと>を分別して行ない、<行なうべきでないこと>は分別してやらないようになさいました。
もし人間を「石」のように、感覚が鈍いように創造しておいたなら、分別できなくてめちゃくちゃに行なって直ちに体がだめになるでしょう。-鄭明析先生の主日礼拝の御言葉『正常を超えたら耐えられない』より
実際、人間はとても敏感で鋭利です。
寒いと感じたら耐えられずに部屋を暖めますし、お腹がすいたらご飯を食べずには耐えられません。
疲れたら眠くて耐えられません。これらは人間が生きる上で必要なものです。
もしご飯を食べなければ栄養不足で死にますし、寝ないと疲労が溜まって体を壊してしまいます。
つまり、これらの痛み、苦痛は「生きるためのアラート」の役割をしています。
もし、これを感じられないとどうなるでしょうか。
栄養が少なくなってもそれに気づかずご飯を食べるのも忘れ、行なっているうちに倒れてしまいます。
寝不足で疲労が溜まっていても気づかずに、最終的には体を壊してしまいます。
寒さを感じられなければ、体が冷えていてもそれに気づかず、最終的には凍死してしまいます。
実は…発達障害を持つ人の中で、実際にこのようなことに陥ったという話は結構あります。
たとえば、ある人は温度調節の機能がうまく働かなくて、暑さに気づかず汗もかきません。
そのために、真夏の炎天下でも作業をし続けぶっ倒れてしまうということがしばしば起きます。
なので、周りの人が環境をしっかり調節してあげる必要があるのです。
また、グロタンディークという数学者は3日くらい食べることも寝ることもせずに数学や瞑想をしていたら倒れてしまい、「やはり休息は必要だ」と感じたということが自伝に書かれていました。
彼はASDの傾向を持っているという説があり、おそらく数学に没頭しすぎて空腹や眠気というアラートを感じなかったのではないかと思います。
あるいは、聴覚が過敏で人の声が聞こえすぎて気になり集中できない、とか色々なものが目に入って集中できない、とかいう話も聞きます。
このように、発達障害の人は普通の人が持っているのと異なる『感覚』があります。
普通の人が感じられるところに対して鈍かったり、逆に鋭かったりします。
ちなみに、私の場合は外的な痛みに対して鈍感なところはあり、逆に精神的な苦痛は人より強く感じるみたいです。
感覚がない、とはどういうこと?
普通の人も、発達障害の人が持つ問題にぶつかることは多いと思います。この点だけを見ると発達障害の人とそうでない人には何の違いもありません。
ところが、発達障害の人の場合そもそも初めから「感覚」を持っていないということによって問題が起こっているのです。
たとえば、発達障害の人にある「相手のことを想像できない」ということにしても、そもそも相手のことについて感じられない、想像できないというレベルで起こっているのです。
決して「相手が嫌だから、自分の気持ちでいっぱいで」というわけでなく、そもそも相手のことを感じる、考えるという感覚がないという感じに近いでしょうか…。
…と、こう書いても分かりにくいと思います。
そこで、適切な喩えでこのことを表現してみます。
日本では「信仰を持つ」ということについてよく分からない、という人が多いです。
それは摂理に来た人でもそうで、大抵「神様を信じる」ということについて苦労しもがいています。それは「見えないもの、唯一神を信じる」という感覚がそもそもないからです。
これは日本は八百万の神を信じる神道によってできている土台があるからです。
しかし、世界を見てみると大半の人は「神様、ないしは何かしら見えないものを信じ」ています。
それが聖書の神様であるかは別として、何かしらの宗教、信仰を持っています。そういう人から見ると日本の「何も信じない」という文化はとても奇異なものとして見えます。
これって、発達障害の状況と似ていると思いませんか?
また、別の話でいうと…。
私たちが言語の知らない国に行ったとしましょう。英語、韓国語、イタリア語、ヘブライ語…なんでも構いませんが、普段使わない言語の国へ。
そこで現地の人と話してみようとしますが、そもそも言語が聞き取れません。少しわかっても、相手の話は理解できず、オウム返しするのが精いっぱい。
しばらくして言語は分かっても、ニュアンスをつかむのは至難の業です。どういう時にその言葉を使うのか、現地の人の見よう見まねでやってもうまく行かないこともあります。
実は、発達障害を持つ人の中で「オウム返し」をする人はいます。
それはこういうことなのではないか、と話す専門家もいます。
この二つの例(ちなみに、前者は摂理にいる人向け、後者は摂理にいない人向け)から、「感覚がない」ということがどういうことか理解の助けになれば幸いです。
発達障害の人は「生まれ持っての偏りで、多くの人が当たり前のように持っている感覚が弱い、もしくは全くない」ということなのです。
それは「日本人が英語を勉強しても、現地でうまく使えない」のと同じです。どんなに勉強しても、やはり先天的に学んでいる現地の人よりはうまく使えないのです。
英語も「たくさん使ってこそ感覚が分かる」ように、発達障害の人は「普通の人が持つ感覚をたくさん経験して初めて得ていく」ということなのです。
この文章が読んだ皆さんにとって発達障害の理解の助けになれれば幸いです。
この記事を書いたブロガー
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「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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