野心作のような、私の発見。

こんばんは、satoです。

旅の疲れもようやく取れました。結構疲れが取れるのに時間がかかりました…(´・ω・`)
もっと体を鍛えないといけませんね…(´・ω・`)

さて、今日は前にやっていた数学の問題を完成させることにしました。
改めて見てみると、議論の最中にとても初歩的で重要な間違いをしていました…。具体的には不等式の向きが逆になっていた…という。
しばらく考えていたのですが、結果として正しい証明を作ることができました。最初はかなり焦りましたが、しばらく考えてみるとつまずいていたところは結構簡単な方法で修正できました。
ついでに、前に構想を受けていた発展的な話も具体的に数式にしてみました。そうしたら、前に考えていた時にはこんからがっていたところがスッキリと理解できました。
こういう時の数式の威力は本当に大きいです(^^♪

この命題は教授と考えていた問題の延長戦にあって、その問題設定から証明まで自分の力でできた、初めてのものでした。
これまでの私の研究してきたものを見ると、教授を通して問題が出されたり、証明の核心となるヒントを教えてもらってできたものでした。
だからか、内心「私の力でできたものでない…」という負い目、と言いますか、悔しさ、と言いますか…どこか素直に喜べないものがあったのです。
しかし、このときの私にはまだ数学を考える力、問題を数式化し、結果を予想し、それを厳密な議論を持って証明するだけの力がまだなかったのです。

それが、今年になってようやく一つできた。
結果としてはとても小さいかもしれませんが、今考えている問題は教授との研究が起点にあるけど「一人で」歩き始めたものなのです。

この一連の命題を改めてみたとき、私は月明洞で岩の造形を立てているのを見たときと同じ感覚が出てきました。
何と言いますか…「本当に創り出している」という感じです。
月明洞の野心作も神様の構想を受けて、鄭明析先生を中心として摂理の人がその手で立てていったものです。
今も新たな岩の造形をポンソク牧師を中心として、一つ一つ作っています。
そのように、私もまた神様からの霊感を受けて、数式を一つ一つ創り出している、その感覚がありました。

私は月明洞に行く前、「私は何もできていない、失敗ばかりで行く条件がない…」と思っていました。
しかし、月明洞に来た時に不思議と「私も何かをできていたのかな?」という感じがありました。何か、満ちている感じと言いますか、土台ができている感じと言いますか…。
具体的には御言葉をしっかりと聞けていたり、御言葉を実体として感じられたり、今までにない感覚でした。
改めて振り返るとそれは「数学研究」でした。論文を書くことはなかなかうまくいっていませんが、色々手を動かして計算し、数式の意味を理解していきながら、問題を立てて証明していく、そのプロセスをようやく自分のものにし始めていたのです。

数学の問題を考えるととても楽しいです。
どんなに初歩的なことだとしても、新たな発見があると喜びにあふれます。
病院でも言われましたが、確かにほかのことで喜べないときも数学の発見を思うととても嬉しいし、楽しいと感じています。
そう考えると、私はやっぱり「数学研究」が合っているのだと感じます。
月明洞で共にした人ともいろいろ話をしましたが、やはり私自身の数学に対する情熱と愛はとても強いなぁと感じます。
それくらいでないと研究できませんけどね(笑)

数学の発見について色々な話がありますが、私は「その人の思考過程」が数学になっている、と感じます。
たぶん「数学は情緒である」と話す岡潔の数学観に近いです。単なる形式的なもの以上の何かを感じています。
数学の実体は外にあっても、その数式は「一つの作品」-それは絵や芸術と同じような-になっていると感じます。
その人が何を考えているのか?どのような視点で見ているのか?数学をどのように捉えているのか?
その人の問題意識に始まり、手法に至るまで、すべてが論文に詰まっています。

私たちが数学の論文を読むとき、そこにあるのは「その人の作品」です。
そこから私たちは「その人が表そうとしている実体」を読み取っていく…そういう世界で生きているのです。

月明洞に神様の構想を実現したように、私も数学で神様の構想を実現できるように頑張りたいです。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。