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「間違い」で人や神様に迷惑を掛けても…

「間違い」で人や神様に迷惑を掛けても…

おはようございます、satoです。

昨日に引き続き、私が「間違い」を受け入れられない原因について分析し、どのように改善すればいいのかについて書きたいと思います。今日は「人に迷惑を掛けること」と「0-100思考」を中心に書きます。

ところで、さも自分がこうできているように書いていますが、この文章は「間違い」を受け入れられない私を説得するための文章なので、その辺りをご了承ください。

人に迷惑を掛けてしまったことについて

私が「間違い」をした際に一番気にすることの一つが「その人に嫌われてしまったのではないか?」ということです。
これは、中学あたりに一度クラスメイトに宿題の解答を見せてあげたのですが、その時の解答が間違ってしまっていてその人に「間違ってるじゃん!」と怒られたことがきっかけだった、と思います。それ以前にも色々ありましたが、中学という「アイデンティティの確立」のときに経験したこれが大きい気がします。
これが今でも響いてて、私が何かしら「間違い」をした(かもしれないと考えた)時に、特に嫌われたくない人に対して何も反応が無かったときに「あ、もしかして嫌われてしまった?」と考えショックを受けることがあります。もっとも、大抵の場合これは過剰反応で、相手側は何も思っていないということがしばしばなのですが…というか、このパターンで本当に絶交されたなんてことはなかったですね。

それはともかく、たとえ人が迷惑に思い、不快に思ったとしても、それは仕方のないことです。相手が自分のしたことに対してどう思うかは「相手の自由」なのですから。
大事なのは、相手の機嫌を取ろうとするより、その「間違い」に対してどうフォローするかを重視した方がいいということです。何故かと言うと、相手が不快に思ったのは、その失敗したことで「自分の負担が大きくなる」からであることが多いからです。自分自身の人格を嫌に思うというのは(一回の失敗では)起こりにくいです。
なので、失敗したことに対してどのようにフォローし、相手の負担を軽くするかを考えたほうが有益ですし、その方が相手も喜びます。決して、「この人に嫌われた!自分がダメ人間だと思われた!」と自暴自棄に陥って相手に邪険に接したり、自分のする責任を放棄してはいけません。そうしたら、もっと人間関係がダメになってしまいます。

自分が失敗したことで、どのようなことになっているのか、そして何をすればその失敗がフォローされるのか。

この辺りを分析できるくらい、常に冷静になれれば最高です。
が、そうでなかったとしても、次にもっと相手を喜ばせよう!とポジティブに(時には多少強引でも)切り替えるようにできたらいいですね。

ところで、相手に対して一度の「間違い」で嫌われる、というのはよほどでないと起こらないのですが、何度も間違ってしまうとさすがに相手も色々辛く思います。これも仕方のないことですが、私は昨日書いたことと後述することが原因で失敗を受け入れられない、そして受け入れてもしばしば忘れてしまうという弱点があるのでどうしても同じ間違いを起こすんですよね…。
で、私の場合この「何回も失敗して『いいかげんにしろ!』と怒られるとか『もういい!』と言われる」ということを経験したのかアニメで見たのか分かりませんが、とにかくこれを想起してショックを受けることもあるようです。

相手に嫌、と思われると「いじめられる、攻撃される、嫌なことを言われる」…そういう考えがよぎって恐怖に思うっぽいです。私は。
しかし、この考えは一旦置いて、ひとまず相手が「本当に嫌だな、辛いな」という気持ちを受け取りましょう。先程も話したとおり、それは相手の思いで、それは尊重されるべきものです。
しかし、だからといってその人から離れる必要はありません。自分がどうしたいのか、は自分の自由です。ひとまずはその意図を組んで、その心情を慰めるとか、もっとうまくやることを考えられるとイイですね。

私の脳の癖・傾向に由来するもの

最後に、私の脳の癖に由来する「間違い」に関することを書きたいと思います。

これは発達障害の傾向を持つ人に多いようですが、完璧主義、「0-100思考」というものがあります。
つまり「完璧に一点の傷がない」状態でなければ全てムダだ、と考える傾向にあるのです。たとえば、シューティングゲームでノーミスクリアをしようとした際、一回ミスしたときに「ひとまずそのままやろう」と考えるのか「あ、時間のムダだからもう一度最初からやろう」と考えるのか、という話です。後者がより「完璧主義」の傾向です。

これは目的を成し遂げること一つしか考えないために起こることです。この「目的のみに一点集中」というのが発達障害の傾向が持つ「過集中」に由来して起こりやすいのです。目標を下げるということがなかなか出来ないんですよね。

これを信仰生活で当てはめると…。
たとえば、私の場合は一時期「アニメを見ない」という条件を立てていた、というか一度見ないで続いていた時があったのです。ところが、実家に帰ったときに弟がつけたものを見てしまい、その条件が崩れてしまいました。それで、かな~り落胆しました、その時は本気で泣いてもうどうしたらいいのかパニック状態でした。
で、その後見なければ良いのですが…その後アニメのwikipediaをずっと見てしまっていたのです。「もう見ちゃったし、これもしていいや」的な思考で。こういうことになりがちなのが、完璧主義の弱点です。「完璧でなければ、もうやめよう」的な思考になるのです。

実はこのことに関して今朝の祈りで真剣に悔い改めました。
昔間違ったことが響いて、今でもうまく治められなくなっている、ということに気づいたからです。最初にした「間違い」を受け入れ、これからは改めてそのようにしない!と決心しました。ようやく。

しかし、完璧主義が悪いというわけではありません。完璧を目指す、その姿勢は天も喜ばれます。

それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。-マタイによる福音書5章48節

神様も完全に至ることを願われているからです。
しかし、だからといって、神様は完全でないものを全く切り捨てられる方ではありません。
完璧主義の傾向にある人はどうしても「完璧でなければダメ」と切り捨ててしまう癖があります。しかし、神様はそうではありません。最終的に完全になればいいからです。

つまり、失敗したことがあってもそれまでできていたこともご覧になって、その条件の上に完璧にできるように条件を課すということです。
何か条件…たとえば40日間明け方にお祈りする、という条件を立てて39日目に寝坊したとしましょう。
そうし
たら、人は「あぁ、今まで祈ってきた38日の祈りがムダになった!」と思い込みがちですが、しかし神様は38日目まではできたんだな、と考えます。38日の祈りの分はちゃんと積まれているのです。その土台の上に、じゃあ次こそは40日を目指そうと話されるのが神様です。

最後に

ここまで書きましたが、悔しく思ったり、ムダになった、と感じる由来は時間です。もう一度やるにしても、時間が掛かるからです。つまり、「間違い」があると「時間」を余計に消費してしまうのです。
だから、一番いいのは「間違わない」ことです。

が、「間違い」をしないために必要なことの一つが過去にした「間違い」を受け入れるというプロセスであるということに今週気付きました。過去の「間違い」を受け入れない、つまり「間違い」を正当化してしまうとそれを行なってしまうからです。
そういうわけで、今週の後半はこういう記事を書いてみました。
このもがきが、同じ悩みを持つ皆さんの助けになれば、と思います。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。

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