法は「裁く」ためでなく、「守る」ためにある

おはようございます、satoです。
「法について」の摂理の御言葉、法に対する認識が覆されるとてもいい御言葉だったので、こちらをご紹介してみます。

皆さんは「法」と聞くとどのようなイメージを思い浮かべますか?
…おそらく大半の人が「堅苦しい」とか「縛られている」と感じるかと思います。私もこのような人でした。
実際、世間一般の法は「~しなさい」「~してはいけない」と書かれていてとても堅苦しいです。

たとえば学校における「法」といえば校則ですが、校則では「ケータイを持ってきてはいけない」とか「スカートの長さは○○まで」とか「茶髪に染めるの禁止」とか、色々出来ることを拘束します。これを聞いて「なんか自由がないなぁ」と感じる人も多かったのではないでしょうか。ちなみに、私はあまり感じた人ではなかったです。

これは余談ですが、学校でワックスを付けるのが禁止だったのでずっと付けていなかったのですが、大学、より正確には摂理に来てから「ワックスを付けて整えるのが当たり前」ということを知って衝撃を受けました。「ワックスって悪いこと」だと思っていた私にとって、学校の校則と世の常識とのギャップが本当に衝撃的でした。
それ以来、学校の衣服に関する校則に若干の疑問を持っています…これは今でも解けていません^^;

あと、いわゆる民法や刑法は基本「これをしたら懲役何年」とか「これをしたら罰金」とか「罪に定める」内容が書かれています。
身近な例だと道交法もそうです。道交法の書き方も「○km/h超過したら何点引かれる」とかいう書き方です。
これを文字通り捉えると「法によって罪を定めている」と感じます。

このように、「法とは自分たちを縛るものだ、罪に定めるものだ」という認識はとても強いです。
この認識で神様の御言葉を聞くと、神様の御言葉は基本「~しなさい」「~するな」なので、とても息苦しく感じます。
「あれもだめ、これもだめ、いや~摂理って縛りが多いよね」って。

しかし、実際これは神様の願うことではないのです。
聖書にはこんな話があります。

なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。
しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。

口語訳聖書 ローマ人への手紙3章20−22節

ここに書いてあるように、旧約で宣布された律法は「罪を定める」ものでしたが、この律法によってイエス様の神の義が証されました。
これはどういうことかと言いますと…。
律法というのは元々モーセを通して「どのようにすることで神様に従うべきか」ということを伝え、それを守らせるための御言葉です。これは「これを守って初めてクリア」というある意味で最低限のルールです。
この律法、本来は「神様の御言葉を無条件信じ、行なった」アブラハムの信仰の条件、そして彼への約束を守るために子孫に与えたものです。アブラハムの死後400年が経ち、エジプトで奴隷となっている間に神様のことも全くわからなくなっていた、という背景もあって与えられたものなのでないかな、と私は思っています。

そういうわけで律法があることによって人がどう生きれば良いのかということが分かったのですが、これを実際に成し遂げたのがイエス様でした。
そしてイエス様を信じることで分かった「神様の愛」というのが現れたわけなのです。

ここから分かるのは律法、ひいては神様の御言葉は「法によって自分たちを縛るもの」ではなく「神様の愛、祝福を受けるためのもの」であるということです。
これについて、今週の御言葉で明確に書かれています。

<十戒>も「神様の法」です。言い換えると、<神様が人間に願われる願いと希望>です。
<第一の戒め>は、「私以外に他の神に仕えるな」とおっしゃいました。 これを言い換えると、「私エホバ以外には他の神はいないから、ただ私だけに仕え、愛しなさい」という<神様の願い>です。
人間を創造なさった神様が人間に自分を愛してくれということだから、その法がどれほどいいでしょうか?

神様はまず人間に<法>で「条件」を与えて、その御言葉を守れば<祝福>を与えるとおっしゃいました。
<霊>で考えると、「永遠に祝福を与える」ということです。
だからその「法」がどれほどいいでしょうか?<神様の願い>です。

鄭明析先生の主日礼拝の御言葉「法は神様だ。愛し、守りなさい。 法があなたを保護する。」より

強調したのは私によるものです。
このように、神様の法は守ることで必ず祝福を受けます。それも直ちに、目の前でです。

たとえば、道交法にしても、それを守ることによってほぼ確実に命が守られ、安全に楽しく運転できるという祝福を得られます。
一見すると見過ごされますが、信号を守り、スピードを守れば必ず「命が守られます」。実際にそうなっていますよね?
(…実際には「違反をする人がいて、その人のせいで危険なことになる」という問題があります。これについては現実で様々なところでぶつかる問題です。
憲法と最近の国際情勢についてもこれが問題になります…というのはまた別の機会に)

このように考えると、法というものが決して悪いものではないのです。むしろ、守ることで最高の祝福、喜びが得られるのです。当たり前のようになってしまって忘れてしまっているだけで。

個人的には衆議院議員総選挙の当日(2017年10月22日)に伝えられたのがこの御言葉であることに驚愕しました。
この時の選挙の焦点の一つが「憲法の改正」であったからです。
本来、憲法の理念は「国家が暴走して国民の利益を奪うことのないようにする」ためのものです。また、国と世界の平和のためにあるものです。
だから、それを守ることで最高の祝福を受けられるのです。(繰り返しますが、現実では「ルールを破る人・国」が問題になるのですが)
今回の御言葉を聞いて、「憲法が『神様の願い』とひとつになる」ことが最高だなと改めて思いました。
今の憲法がどのような経緯で作られたかもまぁ大事なのかもしれませんが、それ以上に「その憲法が神様の願いと一致しているか」が大事で、今の憲法がどのような理念で作られたのかも含めてしっかりと読み込んで、今後の道を考えていきたいですね。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。